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朝のオフィスは人々の行き来で慌ただしい。出勤したスタッフたちは、先ず仕事の優先順位を確認すると、それらを処理するために次々と持ち場に向かった。
私を認めたスタッフの1人が、足早に私のデスクにやってきた。彼女の目が小刻みに揺れている。どうやら焦っているようだ。
彼女は仕事に限って言えば、非常に優秀な部下である。その仕事ぶりは上層部の人間からも名前を覚えられるくらいには一目置かれているし、おまけに顧客の評判も上々だ。責任感の伴う大きな仕事にも動じることなく対処でき、上司である私に対してもストレートに意見を言う。ついでに、仕事に関係ない事もつらつらと言いつのる。
もっとも、上層部のおぼえめでたい彼女は、繰り言を聞かせる相手をちゃんと選んでいる。つまり上司である私だ。上の連中は、部下の話を聞くのは当然に上司である私の仕事くらいに思っていて、それを見越した彼女のおしゃべりには取り止めというものがない。彼女の仕事とは関係ない無駄話のかさの多さを知る人間は社内でも少ない。
そんな好き勝手に振る舞う彼女がうろたえる姿を見せるのは、実に珍しい。
「すいません。私ついに、やらかしてしまったかも…」
私は彼女の言葉を聞いて、軽く感動すら覚えた。
なんということだ、信じられない。彼女いま、なんて言った?
(ついに、やらかしてしまう)つまりは今まで、「やらかしてなかった」とでもいうこと?そんなの絶対に嘘だ。彼女の勘違いだろう?私にこれだけ好き勝手に言いたい放題している彼女のことだ。今までも見ていないところでやらかしまくっていたに違いない。
その言葉が、私の頭の中でリフレインされる。
「私、やらかしてしまったかも??」
何度でも聞きたいセリフだ。つまりは、今回は(やらかした)ことを彼女は自覚したわけだ。なんという成長だろう。今までの彼女なら、何かやらかしたところで気にも留めなかったろうに。私も長年、彼女を上司として指導してきたが、こうして部下の成長が見られるとは上司として誇らしい。
「何にやにやしているんですか!これから面倒になるかもしれないって時に。私うっかりSNSに自宅や近所で撮ったセルフィーを大量に投稿したんです。アップした時には浮かれていて。自宅が特定されてしまう。どうしよう…」
私はその言葉に鼻で笑った。
「君のSNSって、そもそも読者いるの?前提条件として、自宅が特定されて被害に遭うには不特定多数に先ず人気である必要があるんじゃん?」
アイドルや注目の人物が投稿写真をもとに自宅を特定されるニュースは耳に新しいところだ。でも、自分のことを「うら若き」とか言っちゃう妙齢を過ぎた女の繰り言をチェックする人間が世の中にどれだけいるのか。彼女の取り止めのない話をわざわざ覗きにくる人がいるというのなら、我が家に招待して一緒に飲んでみたいくらいだ。
「知人が飼っていたマルチーズを抱きしめた写真を(ラブソング_オキシトシンが足りない)の詩を添えて投稿したんです。飼い主が激怒して、クレームを入れてきたんです。そのあと知人とは微妙な雰囲気になったんですよね。」
「あのマルチーズって、君の犬じゃなかったの?確かにあのラブソングはちょっと…。ともかく、君が心配すべきは、その飼い主の心情であって、自宅の特定ではないと思うよ。とりあえず、その犬の画像は削除したら。」
「イヤです。彼らの旅行中に私が預かってあげたマルチーズですよ。せっかくいい思い出になるような写真がたくさん撮れたのに!」
私はため息をつく。
「じゃあ、その自宅が特定される危険性についてだけど。そもそもだけど、場所を特定されるような建物は君の家の周りにあるの?確か隣が畑で、近所には養蜂場がある特徴の乏しい田舎だよね?」
「窓の外には大きな松の木が植っていて、それが写り込んでいます。ほら、松って常緑樹でしょう。イチョウや紅葉なんかの落葉樹と違って年間を通して風景が似通っているでしょう。季節を通じて風景が変わらないから、特定されやすいでしょ?」
彼女の分析は細かい。けれども、今回のポイントはそこでないことは確かだ。
「言われてみれば。どうせ自宅を特定されるなら、もっと話題性のあるところに住むのもいいかもですね。」
そう言った彼女は突然、また妙な事を考え始めたらしい。
「好きに選べるなら、君はどんなところに住みたいんだい?」
私も聞いてみる。
「せっかくなら、駅近のタワーマンションの最上階がいいです。」
その彼女の考えは私の考えとはちょっと違う。
「私は長く住むなら、なるべく地面に近いところがいいな。」
「確かに。話題の豪華タワマンの最上階は、住んでみたいというより滞在してみたい場所ですね。とりあえず、1時間くらい住んでみたいかな?」彼女は言う。
「1時間?それはずいぶんと短いね!1時間は滞在というより、立ち寄るって感じだね。その1時間で何するの?」私は聞いた。
「そりゃ、ジャクジーの泡風呂つかりながらワイン片手にセルフィー撮って。あとは夜景見ながらビル風で髪を乾かすところをSNSにアップと。あれ、全部やっても30分でできちゃいますね。困ったわ。20分余っちゃう。」彼女の妄想は止まらない。
「そもそも、風が強い最上階の窓は開かないんじゃないの?」私は口を出した。
「噂では蚊も入ってこないって話ですよ。でも、窓からカブトムシもカナブンも入ってこないなら住まいなら、寂しいですね。」彼女の話は都会と田舎が混ざっていて、どちらもかなり両極端だ。
「あ、大事なこと忘れていました!」
彼女は素っ頓狂な声をあげた。
「エレベーターで階下に行ってから、マンションの他の住民にマウント取りに行かなきゃ!」
…何を言っているんだね、君は。
「どうしよう。1時間の滞在じゃ足りないわ。」
私自身の望む終の住処は、やっぱりタワマンではないな。彼女の話を聞きながらそんな事を考えた。
彼女も似たような事を思ったらしい。
「毎日パーティーするための、ワインやシャンパンがオプションでついてくるタワマンも楽しそうですが。終の住処は自然に近いところがいいですね。夏は暑さを避けて静かな涼しい場所で、冬は寒さに負けないように家にこもり。歳を取ったら、親しい友人や親戚付き合いも控え目に。集まるのは年2回までにして、花とお菓子を持ち寄って飾るんです。そこでは、音楽をバックにありがたい年長者の話を聞いて。それ以外の日は、静かに自然の音に耳を傾けて虫の声を聴いたり…」
私には彼女の話す場所について、一つ思い当たった。
「君の言うそれって、終の住処じゃなくて『墓の中』の話じゃない?」
彼女は怒りもせずに、言葉を繋げる。
「そうは言っても、今時の墓は、終の住処以上に買うのも維持するのも大変な代物ですよね。」
彼女はしみじみと言う。
「とりあえず、次の盆にご先祖の墓参りに行ってみたら。」
と、私。
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