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深紅の瞳
「なあ、あんた。あの施設でいったい何が行われているんだ?」
「それはわたしにもわかりません。施設は警備や職員の仕事などそれぞれが完全に分断されていて、同じ施設内でもお互いが干渉することはいっさいありません。ただ……」
今まで淡々と話していた彼女がはじめて視線を落とし言葉を濁した。それからすぐに顔を上げ、誰かに監視でもされているのだろうか、執拗にあたりを見まわした後再びまっすぐわたしに視線を向けた。
「ただ、一度だけ。施設に収容されている子供たちを見たことがあります」
彼女はそこで再び間をおき、わたしの前に置かれたコーヒーに視線を落とした。
「何か飲むか?」
「いえ、大丈夫です。あの施設にあなたの子がいると思うと、今から話すことが失礼にあたらないかと」
「構わない。続けてくれ」
「……はい、それでは。わたしが子供たちを見たのは一度だけ。おそらくその時は集団で施設内を移動している時だったと思います。ほんの僅かな時間でしたが……」
「なんなんだ?」
「……異質、でした。人間、という言葉よりも、むしろ作り物と言った方がしっくりきます。子供たち全員がおなじように口角を上げ、何か会話をするわけでもなく、一様にまっすぐ前を見据えたまま不気味な笑みを浮かべて歩いていました」
わたしは、その施設の中に自分の息子が確実にいることの不安と同時に、面会で感じた息子の「嘘」、が間違いではなかったことを確信した。
「それにしても、そこまでおれに話しても大丈夫なのか?」
「わたしはあなたに助けられてから、これまでのほとんどの時間を一切の感情を捨て、誰とも関わることなく一人で生きてきました。けれど、大人になってこの容姿と性格ではまともに働くことなどできませんでした。唯一働くことができたのが現在の仕事です。あなたの言うように、女性では異例のことかもしれません。それでも、わたしの過去や現在の素性から働くことを認めていただきました。当時わたしはまだ施設のことは詳しく知りませんでした。ですが、あの子供たちの集団を見てから、この施設で行われていることは、……あるべき正しいことではない。そう思うようになりました。そんな時、あなたがこの施設に入ってくるのを見て、あなたの子供がこの施設にいるのだということを知ったのです」
わたしは彼女の右目をじっと見つめた。白く濁ったその奥に、小さく光るものを見た気がした。
「わたしは人生のしあわせの大半は、死に方、にあると思っています。多くの人が絶望の先には死が待っていると思っています。わたしもそう思います。けれど、誰かがそこに手を差し伸べてくれさえすれば這いあがることができます。決して一人では這いあがることなどできないその場所から抜け出すことができれば、その先には希望しかありません。絶望の先には希望しかないのです。あなたはあの時、わたしに手を差し伸べてくれたのです。這いあがるための。わたしの人生において最悪の死は、あの時あなたの手によって消え去りました。だから、今度はわたしがあなたにこの手を差し伸べたいのです」
「何が言いたいんだ?」
「わたしはあの施設の正体を暴いて、子供たちをあるべき場所へ返したい。あなたの子は、あの施設にいてはならない」
一切迷いのない毅然としたその表情に、彼女の言葉がさらに力強さを増していた。
「政府を敵にまわすことになる」
「承知のうえです。しかし、わたし一人の力ではどうすることもできません。もちろんあなたの同意があれば、の話しですが」
わたしは大きく溜息し、椅子の背にもたれて天井を仰いだ。偶然再会したとはいえ、二十年以上も前の恩だ。そう簡単に彼女を信用してもいいものなのだろうか。
そして、もう一度大きく息を吐いてから彼女へ視線をやった。
「何かプランはあるのか?」
「施設の図面はすでに手に入れました。施設内であれば内部からわたしがあなたを手助けすることはできます。問題は、あなたがどうやって施設内へ侵入するかです」
「そうだな。見る限り不可能に近い。まるで軍事施設のような警備体制だからな」
彼女は小さく頷いたが、その目の力強さは変わらなかった。
「施設には入口が二つあります」
「二つ? それは知らなかった。壁に囲まれて入口と分かる箇所は一つしか見あたらなかったな」
「一つはあなた方家族が面会に来られる正面入り口です。もう一つは、その壁の反対側。施設の地下へと通じる裏口です」
「地下があったのか……。侵入するならそこなんだな」
「ええ、しかし実はその裏口の方が警備体制は厳重なのです」
「それなら正面からの方がリスクは少ない」
「ですが、施設内はかなり複雑な構造になっています。正面からでは子供たちの場所まで辿り着くことさえできません。それに裏口の警備の厳重さから、そこに政府が隠している何かがあるのだとわたしは睨んでいます。警備は厳重ですが、そこを掻い潜りさえすれば子供たちのいる場所までは、正面から向かうことに比べれば容易になります」
「だがそれでは中に入るまでが不可能だ」
わたしはコーヒーを飲もうとカップに手を伸ばしたが、いつの間にか飲み干してなくなっていたので、体を起こして彼女の言葉を待った。
「裏口を施設の人間が利用するのは月に一度だけ。子供たちや職員へ食料などの物資の搬入に使われます。もちろん搬入する作業員も武装した政府の人間です。可能性があるとすればそこです。あなたがその作業員に紛れることができれば、施設内へ入ることができるでしょう」
「紛れるったって……。おれ一人でできるのか……」
再び天井を仰ぐ。何人かの同僚の顔が浮かんだ。
警察の中にもわたしだけでなく、子供を奪われた者はいる。そうでなくても、警察官のほとんどは施設のことをよく思っていない。わたしとおなじように恨みさえ持っている者もいる。たしかに虐待や少年犯罪は鎮静化されたが。その分、国の税金のほとんどは施設にまわり、警察官の給料や運営資金にも大きく影響を及ぼしていた。
「もし。もし仮に、作業員に紛れて侵入することができたとしよう。それからどうするつもりだ?」
「わたしが、施設内のシステムをすべてダウンさせます」
「そんなことできるのか?」
「ええ。しかし一時的でしかありません。それに、それが人為的なものであることが知れるのも時間の問題です。施設内すべてのシステムをダウンさせ、まず電力や照明が復旧するのに一分。そこから警備システムのサーバーが復旧するのに二分。監視カメラや防犯センサーの復旧に一分……。いや、わたしが警備室に入り誤魔化したとしても二分。施設内すべてのシステムが復旧するまでにかかる時間は、五分です」
「五分か……。長いのか短いのか分からないな」
「その間に、施設内にある武器の保管室で落ち合いましょう。図面は追って連絡します」
「武器……。保護教育だろ……。いったい何なんだ」
彼女はそう言ってわたしに連絡先を書いたメモを渡すと席を立った。わたしに背を向け、一歩踏み出そうとしたところで彼女を呼び止めた。彼女はわざとそうしたのかどうか分からないが、白く濁った右目で見るようにして、わたしの方へ振り返った。
「なあ、ほんとうにあの施設で何が行われているのか知らないのか?」
彼女は一度だけ深く瞬きをして、ゆっくり口を開いた。
「ええ。ただ……。物理的なことではなくても、少なくとも……。過去にわたしが受けた絶望よりもはるかに恐ろしいことが行われているのだけは確かです」
その時の彼女の瞳は、光を失ったことを疑わせるほど、怒りに満ちて深紅に染められているように見えた。
公園で遊んでいた子供の一人が、「お母さんが待ってるから先に帰るね」と言って、公園を出て行った。わたしは立ち上がって大きく体を伸ばし、それから腰にある重みをもう一度ジャケットの上から確かめた。
わたしは彼女によって、人生においての最悪の死から逃れることができたのだろうか。少なくとも彼女に出会っていなければ、今頃息子一人をこの狂った世界に置き去りにしていたのかもしれない。
ジャケットの中の携帯が震える。同僚からだろう。
「もしもし」
「準備は? ……分かった。巻き込んですまない」
「それじゃあ五分後に……」
目線のさきに見える夕日は、今日はやけに赤い。
それはまるで。
あの日見た彼女の深紅に染まった瞳のようだ。
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