第一話 母の死

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第一話 母の死

 母が亡くなった。  最近はとにかく忙しそうで、アメリカと日本を行ったり来たりしていた母だったが、そんな母が突然亡くなった。祖母からの第一報を受けたときにはにわかに信じられなかった。  狭い霊安室の中には真ん中に母の遺体が安置されており、その横には私より先に来ていた祖父と祖母の姿があった。 「亜紀ちゃん! ほら、リッちゃんの顔を見てあげて」  私の到着に気づいた祖母が泣きはらした顔で促した。  不思議なことに遺体を前にしても、私はまだ実感が沸かずにいた。  母は綺麗だった。きっとただ眠っているだけだと言われたら誰もがそう信じてしまいそうなくらいに、綺麗で穏やかな顔をしていた。 『眠れないの?』 『私も年かしらね。少し前までは横になって目を閉じていれば、すぐに眠れていたのに』  ブラックコーヒーを飲みながら笑っていた母の姿が脳裏に浮かんでは消えていく。  目の前には横たわったままの母がいる。二度と動いたり話したりすることのない母。 「お母さん……」  亜紀は母に近づいていった。  横たわったままの母は返事をしない。  揺さぶってみる。  こんなところで何で眠っているのよ。さっさと起きてよ。起きて一緒に家に帰ろうよ。  頬を涙が伝って流れる。一度流れ出した涙は止まることなく次から次へと溢れてくる。 「お母さん……」  三沢亜紀は亡くなった律子に縋り付くようにして泣き崩れた。  その後ろでは祖父が険しい顔をして立っていた。  視線の先には亜紀をここまで案内してきた警察関係者らしき男性がいる。祖父はその人に詰め寄った。 「心不全っていう意味、あんた分かるかい?」 「……何ですか」 「心不全はな、心臓が機能してないってことの意味でしかないんだ」  母の死因は急性心不全とのことだった。  意味を直訳してしまえば、急に心臓が動かなくなって亡くなったとなる。  そんなことってあるのだろうか。心筋梗塞とか脳溢血とか具体的な死因を出してもらった方がまだ納得できるような気がする。  母は健康で、いつも忙しそうにしてはいたけれど、娘や両親と頻繁に連絡を取り合っていた。だから自殺も考えられない。それは母の気持ちのすべてを理解していたとは言えないけれど、釈然としなかった。 「三沢律子さんは防犯カメラのない人通りの少ない路地に倒れていたようです」 「それが納得できないんだよ。娘はどうしてそんなところを歩いていた? 家に帰る道でもない知らない道を、娘は何処へ向かって歩いていたんだ」 「それは私には分かりかねます。ただ心疾患で亡くなる四十代の女性の死因はガンや自殺に次いで多いんです」 「そんなことは知らん」 「事件性はない。……警察としてはそう判断させていただきました」  警察関係者の男は突き放すように冷たく告げると、「お帰りの際には改めてお申し付けください」と亜紀とその祖母に言って足早に去って行った。  祖父は気が抜けたように泣き崩れた。 「律子、律子……。苦しかったよな。可哀想になぁ」  今までに見たことのない弱弱しい祖父の姿だった。  いつの間にか涙は止まっていた。二人の話を傍で聞いていて、確かに変だとは思った。母の行動範囲のすべて把握していたわけではないが、フリーのシステムエンジニア兼プログラマーである母はどうしてそんな場所にいたのだろう。  しかも時間帯は深夜である。  クライアントの住所が多少不便な所ならタクシーを使うだろうし、それほど駅から近い場所というわけでもない。  手荷物がまったくないというのも気になる。  何処かに忘れてきた? あの几帳面な母が? ありえない。システムエンジニアが商売道具のPCを何処かに忘れるなんて絶対にありえない。  では、母のPCは何処にある? 母が常に持ち歩いていた、あのPCは何処にいったのだろう?  冷静に考えてみればみるほど疑念は膨らむ。  まるで何処からか車で連れてこられて、防犯カメラのない場所を選んで捨てられたかのようだ。  いったい何があったの、お母さん。  三沢亜紀は目の前で横たわっている母に無言で問いかけた。
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