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第一話 患者
雨が降っていた。
眼を開けるといつもと同じ景色がそこにある。必要最低限に物がまとめられた殺風景な病院の一室。
カーテンを隔てた向こうには、私と大して変わらないくらいの年齢の老婆が一人いる。自宅で転倒して骨折をしたとかで入院してきて一週間、毎日のように面会人が訪ねてきて楽しげな会話が漏れ聞こえてくる。
夫に先立たれて十年。大手製薬会社に勤める一人息子は転勤や出張が多いようで、奥さんや娘さんを残して北海道や関西方面へ行ったり来たりを繰り返している。
息子の嫁との仲は悪くない。同居していないからというのも大きいと思うが、お互い遠慮を重ねてばかりでどうも腹を割って話せない。だけど彼女の花選びのセンスはとても気に入っている。職場が花屋さんというのもあるだろう。昨日もお見舞いにと青い綺麗な花を持って大学生の孫娘と一緒に現れて、花瓶に飾って帰っていった。
病院のベッドの上でできることは何もない。
膵臓癌だと診断され、手術で摘出しようにも不可能なほど周囲に転移が進んでおり、完治は難しいと告知された。
足腰が弱ってきているのは自覚していたが、こうして何もできずに横になっていると、食欲も沸いてこないし、頭の回転だって鈍ってきているような気がする。
だんだん自分自身が死に向かって壊れていっているのが分かる。
だから、私は死ぬ準備をすることにした。
死ぬことは怖くない。それはもちろん若い頃は怖かったけれど、たくさんの人の死に立ち合ってきた今となっては、もう怖くない。
両親に親類、友人、ご近所さんにお世話になった方々、そして夫。さすがに五十年以上一緒に連れ添ってきた夫に先に逝かれてしまったときは大きなショックを受けたものだったが、それもそこから十年の月日が過ぎてしまうと、悲しみも何も無くなってしまった。
傘寿を越えて年を取るということは、もしかしたら鈍感になっていくということなのかもしれない。
「体調はいかがですか?」
気がつくとすぐ傍には唐沢先生がいた。
唐沢憲司。三十代半ばくらいの内科医の先生で、細長の顔にオールバックにした髪、そして鋭い目元が印象的な人物である。
無愛想で、だけどぶっきらぼうというわけでもなくて、一言で言い表すとするなら実直な人。
初めて会ったときは、なんて冷たい人なんだろうと思ったものだが、さすがに一か月も経つとその人の人柄が分かるようになってきた。
「今日は良いですよ」
「それは良かった。とりあえず痛み止めは続けましょうね」
「お願いします」
「食欲は出てきましたか?」
「いいえ。不思議と沸かないです」
「そうですか」
唐沢先生の表情が曇ったような気がする。
会話が途切れると、唐沢は花瓶に生けられたあの青いお見舞いの花に目を止めた。
「デルフィニウムですか」
「そういう名前なんですか? 私はお花に詳しくなくて」
「伊藤さんのような花ですね」
「どういう意味ですか」
「デルフィニウムの花言葉は……」
それを教えられた私の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。
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