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三
部屋は予約で満室になっていて準備にてんてこ舞いだというのに早苗の姿がない。白根は風呂掃除をした格好のまま、サンダルを突っかけて外に出た。玄関からすこし離れた生垣のそばで早苗は立ち話をしていた。
相手は大木戸だった。普段はおどおどして表情も硬い娘が、彼のお喋りに口を押さえて笑いをこらえている。目元を見れば彼女が打ち解けているのは明らかだった。白根は声を荒げたくなる衝動をこらえてゆっくり注意した。
「早苗ちゃん、まだ支度が終わってないよ」
早苗は顔を赤くして何度も頭を下げて逃げるように旅館のなかへ駆け込んでいった。
「困りますね、忙しい時間帯なのに」
「君はいつも忙しそうじゃないか」
正面きって言ってやっても大木戸は涼しい顔をしている。
「あの子はここに勤めてまだ半年です。話したところで得るものなんてありませんよ」
「そうかね。なかなか頭の良さそうな子のようだけど」
背筋がぞくりとした。おととい白根に伝えたあのにおいのことを話してしまったのか。
「何か言ってたんですか」
「何も言ってないよ」
白根は安堵し、悟られないように視線をそらしたが大木戸は、
「沈黙は金なりというからね」
さらりと付け足した。見透かされていると白根は思った。やはりこの男に中途半端な誤魔化しは効かない。それどころか白根が必死で隠蔽するのを面白がっているのではないかとすら感じる。
ならばこちらも、隠せるところまで隠しとおしてやる。
「松岡のことだけどねえ、この前は言わなかったけど青年革命連合はもうジリ貧なんだ」
「そうなんですか」
「おや、意外に驚かないね。知ってたのかい」
「知りませんけど、僕には無関係のことですから」
「そう言うなよ……しかし、佐藤や吉村が懲役刑になったのは知ってるだろ?」
白根が青年革命連合を脱退するすこし前、幹部だった佐藤たちは拳銃の奪取を目論み、ナイフやロープを手に交番を襲撃し、ひとりで待機していた巡査を縛り上げた。ところが、たまたま近所で強盗事件があったために付近に大勢の警官がおり、佐藤たちが拘束した巡査から拳銃を奪おうとしているところに、電話をかけに戻ってきた警官たちが鉢合わせし、揉み合いの末逮捕されてしまった。
「未遂とはいえ警察官三人に怪我をさせて六年か。それで見切りをつけて脱退したメンバーがかなりいるんだよ」
同じ頃爆発物所持で指名手配されていた松岡も逮捕されたから、幹部クラスの半分ほどが不在となった組織が求心力を失ったことは否めない。
「鈴木って女の子がいただろう?知らないかな、松岡と親しかったと思うけど」
白根は曖昧な返事をした。知らないもなにも、松岡と関係のあったなかでも、かなり露骨に振る舞っていた女である。
「あの子も辞めちゃってねえ。東北の出身だけど、帰ってしまったよ」
松岡は鈴木のアパートにもよく出入りしていたはずだが、出所してから泊まるところに困っていたようなのはそのためか。長居をさせてくれる女は、皆組織に見切りをつけてしまったのだろう。
白根の心に爆弾を放り込んだくせに、素知らぬ風で大木戸は胸ポケットから煙草の箱を取った。
「君もどうだい」
「利益誘導じゃないですか」
「……面倒くさいなあ。君は被疑者じゃないし、第一こんなもので買収されるタマじゃないだろう」
大木戸は煙草に火をつけ、長々と煙を吐く。指の間からちらりと金色の鳩が見えた。
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