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「H**線のすべての駅周辺で聞き込みをしたんだ」
「大掛かりですね」
「我々の捜査なんて地味なものだよ。探偵小説みたいに都合よく手掛かりが転がってるわけじゃないからね」
「それで、どうでしたか」
白根はあえて訊ねた。大木戸は待ってましたとばかりに笑みを浮かべる。それは妙に露骨だった。あるいはその反応すら演技で、白根を網に絡め捕ろうとしているのかもしれない。
「M**駅から三キロほど離れた農道を歩く姿を近所の住民が目撃している」
「へえ」
「どう思う?」
「え」
「あの辺にシンパの家が無いのはわかっている。空き家も調査済みだ。しかし彼はいなかった……どこに行ってしまったんだろう」
白根は表情を無関心を装って言葉を探した。知らないですよと言うのは簡単だが、あまりに白々しい。かつての同志の行方なら多少は興味を持つほうが自然ではないか。
「……山の中にアジトがあるとか?」
「はは、どこかで聞いたことがある話だな」
M**駅から数キロ歩けばすぐに山道である。この辺りは低山が重なるばかりで登山客はまずいない。春先ならば地元の住民が山菜採りに登るけれど初冬の今は淋しいものである。
「アジトだけなら良いけど、まさか死体なんて埋めてないだろうね」
白根は息を飲んだ。
落ち着け、落ち着け。肌寒いのに汗が背中を伝った。穏やかな表情をしているが大木戸の目は猛禽類のそれである。
なにか言わなくては。白根は焦った。
「……いや、よく考えたらこの辺の山はアジトが作れるようなひらけたところなんてありません。標高は低いけど、傾斜がきつい」
「それじゃ死体は埋められないか」
「さっきからなんですか。死体死体って」
「そういう事件があっただろう」
乗せられてはいけない。白根は息を深く吸って、吐いた。
「今思いついたんですけど、山に籠もっているんじゃなくて山越えしたんじゃないかな」
「山越えか。興味深いね」
「山に入って二時間も歩くと県境を越えるんです。そこから下りになって、やがて国道に出ます。トラックがけっこう走ってるから、ヒッチハイクしたら乗せてもらえるかも」
「そうなったら困るね。何処へでも行けてしまう」
大木戸は銀色の小さな箱に吸い殻を収め、振り返って山を仰いだ。
「山を越えたとしたら大ごとだなあ」
呟きながらちらりと旅館に目をやり、
「また何か思いついたら連絡してくれよ」
と言って手を振ると緩やかな坂を下りていった。
白根は額にじんわり浮かんだ汗を拭った。
大木戸は自分の言葉など信じていないはずだ。彼は決して激しい追及はしない。あの妙に惹きつけられてしまう笑顔と、のらりくらりした喋りでいつの間にか追い詰めていく。そしてこちらの小さな反応を見逃さない。
きっと、捕らえられてしまった。
白根は恐怖のなかで酔ったような感覚をおぼえていた。
坂の下には人影があって、大木戸の影はそれに近づいて止まった。ふたつの影はしばらく佇んでいたが、やがて町の中心部へ繋がる道を進んでいった。
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