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 父の代から長く勤めている仲居のスミと陸子、働き出してまだ半年の早苗が、食事の済んだ皿をどんどん厨房に運んで来る。白根は手を真っ赤にしながら汚れた食器を洗っていった。その合間に客室に布団を敷きに行く。放っておくと手を出す敬子に無理をさせないためだ。敬子は手際の悪い早苗にシーツの整え方を教えていた。白根は十三人分の布団を降ろし、厨房に戻ってまた皿洗いをする。板前が朝食の仕込みを終え、外にある従業員用の寮に戻っていった。玄関の柱時計が九回鳴った頃、義兄が車で敬子を迎えに来た。明日はお客さん少ないから大丈夫だよ、と声をかけたがきっと敬子は来るのだろう。  敬子が帰って厨房に人がいない隙に、白根は鍋に残った煮物を弁当箱に詰め、握り飯を作った。  陸子が厨房に顔を出し、挨拶して帰っていった。陸子には家族がいるので集落の中に家があってそこから通っているが、スミと早苗は寮に住んでいる。  次にスミが厨房に入ってきた。 「スミさん、ご苦労様」 「坊ちゃ……(ゆたか)さんもだいぶ板についてきましたね」  父親が亡くなり白根が名実ともに旅館の主人になって二年近くになる。大学に入ってからは碌に手伝いもしていなかったので、敬子やスミの助言を受けながらがむしゃらにやってきた。 「ありがとう、でもまだまだだよ」 「あたしも歳ですからねえ、もっとお手伝いできれば良いんだけど」 「スミさんには本当に頑張ってもらってるよ」    年老いた仲居はニコニコしながら頭を下げて出ていった。最後に早苗が戸締まりを終えて来たが、なにか言いたそうにもじもじしている。 「あのう、旦那さん」  父親が生きていた頃の感覚が抜けず、こう呼ばれると白根はこそばゆい気分になる。 「どうしたの、早苗ちゃん」 「桔梗の間のお客さんがお食事のときに何だか煙臭いねと仰ってまして」 「そういうことは早く報告してくれなくちゃ」 「……すんません」  早苗は気を抜くと訛りが出てくる。 「桔梗の間はお台所からも離れてるし、今日の夕食はハヤの甘露煮で清水さん昼間から仕込んでましたから、夕方に煙いなんてことはない思うて……それで、誰かが外で煙草を吸ったのかとさっき懐中電灯持って桔梗の間の下あたり見ぃ行ったんですけど、吸い殻無くて」  不器用で口下手だが、十七歳になったばかりの遠慮がちな眸の奥には賢そうな輝きがあった。 「おおかた、誰かが焚き火でもして煙が流れてきたんじゃないかな」 「ちょっと時期遅い気ぃしますけど」 「そういうこともあるだろう。もし明日になってもお客さんが気になるようなら、部屋を替えるから早めに言ってほしいな」 「わかりました」  早苗はおやすみなさいと言って出ていった。厨房が静かになると、白根はアルミの水筒に番茶を注ぎ入れて蓋をし、弁当箱を風呂敷で包んで抱えると部屋を後にした。  廊下は静まりかえっていた。ほとんどの客はもう寝たのだろう。小さな旅館だから家族旅行やひとり旅の客ばかりで、会社の慰安旅行のようなどんちゃん騒ぎは無く、夜十時を回ると部屋から漏れてくるのは鼾くらいなのだ。  白根は階段を昇り暗い廊下を進んだ。桔梗の間は東側のいちばん端にある客室だが、突き当たりには何の案内もない簡素なドアがある。取っ手すら目立たぬ作りで客の殆どは気づかないだろう。周囲に響かないよう気をつけながら五回ノックすると、中から解錠する微かな音がした。白根は細くドアを開けて躰を滑り込ませた。  六畳ほどの部屋には段ボール箱や古びた箪笥、鏡台などが雑然と積み上げられている。その隙間に押し込むようにくたびれた布団が敷かれ、松岡英俊が胡坐をかいていた。
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