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その夜は珍しく訪問客が早々に引き上げて、泊まる者もいなかった。いつもなら追加のおかずを作ったり頼まれて煙草を買いに出たりと忙しいのだが、食器を洗ってしまうとやることがなくなり、白根は気が抜けてしまった。寝るにはまだ早いしと所在なく松岡の部屋を覗くと、部屋中が煙でもうもうとしていた。多分、筆が乗らずにやたらとピースをふかしているのだろう。
窓開けるよと白根は声をかけて部屋に入った。松岡は咥え煙草で仰向けに寝そべっていた。腹の上には布張りの分厚い本が広げてあった。立派な装丁だが手垢で汚れ縁も擦り切れている。中身は描き込みだらけに違いないと白根は思った。
「寝煙草は駄目。火事になる」
白根はすでに吸い殻が山になった灰皿を松岡の前に押しやった。借家なのに畳のあちこちに焦げあとがついてしまっている。
松岡は起き上がって煙草を灰皿に押し付けた。文机の上にに積まれた原稿用紙の間に琥珀色の液体が少しだけ残ったコップがある。普段は執筆中に酒は飲まないのだが、よほど進まなかったのかディオニュソスの助けを借りようとしたらしい。
「白根、最近はどうだ?」
いきなり訊かれて白根は面喰らった。
「どうって……毎月『革命旗』の編集をしてる。角田さんの論文を校正しているところ。あと、初音荘の連中とビラの印刷」
「そうじゃなくて、お前自身のことだよ」
「僕自身……」
目の奥が真っ白になった。
「僕のなかの葛藤ということなら、正直克服できていない。革命の意義は理解しているつもりだが、僕の故郷のような田舎の商業地域にどう結びつけてよいかわからないんだ。彼らは資本家と言うにはあまりに素朴だ。でも近年は観光客を呼び込むために昔ながらの小さな旅館を取り壊して大型のホテルを造ろうとしているひともいる。それは我々の理想とする社会からは逆行しているのではないか……」
松岡は頷いた。
「でも、町のひとたちを説得するには僕は無力で……いっそのこと爆弾で破壊できたらスッキリするのかと思ってしまう」
「そりゃ極論だな。確かに彼らは資本家だが、同時に労働者でもあるだろう。破壊すべきは労働者を搾取している大型の資本家であり、国家である」
「ああ……確かに」
白根が目を見張るのを松岡は満足げに眺めていた。
「お前の故郷の人たちを啓蒙するのは、お前しかいない。今すぐにやれとは言わない。お前自身が活動を通じて革命への理解をさらに深めてからやれば良いんだ」
「うん……」
返事をしたものの白根はまだ納得しきれずにいた。自分は心の底から革命を欲しているのかわからず、ただ周囲に流されているだけのような気がしてならなかった。
「不安なんだ……」
本音を漏らして白根ははっと口を押さえた。松岡は微笑していた。優しげな表情に安堵して、白根は泣きたくなった。松岡は手を伸ばして白根の頬に触れた。
はじめての口づけだった。
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