第一話 おばあちゃんの入院

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第一話 おばあちゃんの入院

 おばあちゃんが入院した。  おばあちゃんはその日のお昼頃から変だった。いつもなら十分もかからない部屋の掃除に一時間もかけたり、洗濯し終わったばかりの洗濯物をまた洗濯しなおしたりしていた。  夜中、僕は台所のガタゴトする音で目が覚めた。時計をみると二時だった。明かりのもれる台所のドアを開けると、おばあちゃんが黙々と人参を切っていた。その目が変だった。とろんとしていた。おばあちゃんの横で、鍋のお湯が沸騰していた。テーブルの上にはキャベツだの玉ねぎだのが山のように置かれていて、その野菜の山のむこうで卵が割れて、テーブルの端からたらりだらりと床にこぼれていた。冷蔵庫も冷凍庫も開いたままだった。  怖くなって、とにかくお母さんに電話した。  お母さんがようやくやってきたとき、おばあちゃんは出来たてのお味噌汁らしきものを流しにドボドボ流しているところだった。  おばあちゃんは、お母さんがいくら呼びかけても、「ああ」とか「そうね」とかモゴモゴ言うだけで手を休めない。  しばらくしてお母さんの呼んだ救急車がピーピーやって来た。  僕は生まれて初めて救急車に乗った。  夜中の病院で、おばあちゃんは大勢のお医者さんや看護士さんたちに取り囲まれていた。  ガヤガヤうるさい輪の真ん中でおばあちゃんは、一人ぽっちで、ポツンと座っていた。  そんなおばあちゃんを、お母さんがじっと見ていた。  おばあちゃんは脳溢血で、病院に来るのがもう少し遅れたら死んでいた、とお母さんはお医者さんに言われたそうだ。  手術の終わったおばあちゃんが運ばれたのは四人部屋だった。  残念なことに、おばあちゃんのベッドは窓際じゃなくて廊下側だった。  おばあちゃんが手術を受けた日から四日間というもの、僕はお母さんと一緒に毎日病院に通った。僕は夏休みだからいくらでも時間はあったけど、お母さんは会社を休まなければいけなかった。車に乗ってる間も仕事の電話にかかりっきりだった。しょっちゅう前の車にぶつかりそうになっていた。 学校は夏休み。空手の道場も一週間のお休みだったおかげで、僕にはたっぷりと時間があった。だから僕は、けっこう張り切ってお母さんのお手伝いをしようと思っていた。でも、僕に出来ることはたいしてなかった。 おばあちゃんの着替えの入った大きなバッグが二つ。それを病室に運び込んでしまうと僕のすべきことは終わった。お母さんは入院の手続きで一階に行ったり、お医者さんと話したりして忙しそうにしていた。僕はお母さんの邪魔をしないように、手術の日からずっと眠り込んでいるおばあちゃんの傍にただ座っているだけだった。  手術から三日目の夕方、おばあちゃんが目を覚ました。僕の顔を見ると、「おはよう」と言った。僕も、「おはよう」と言った。 お母さんが来て、そして、お医者さんが来た。おばあちゃんは誰の顔を見てもぼんやりしたまんまで、お医者さんが、「園崎さん、気分はどうねぇ?」という質問に、「ああ、いいですよぉ」と言っていたが、お母さんの顔を見ると「ここ、どこかねぇ」と聞いた。自分がどこにいるかわからなく途方にくれているおばあちゃんをお母さんはしばらく見ていたけど、結局、怒ったような顔をして病室を出て行った。  四日目の夕方、お母さんは忙しそうにおばあちゃんの服や下着を、ベッドの横にある物入れにしまいながらおばあちゃんと僕に向かって、「じゃ、かあちゃん、私、もう行くからね。信二、あとはよろしくね。なにかあったら携帯に電話するのよ。ご飯はちゃんとおばあちゃん家で作って食べるのよ。あ、そうそう、お金、置いとくわね。かあちゃん、私、また来週来るから!」とポンポン言うと出て行った。  病室を出て行くお母さんの背中をぼんやり見ていたおばあちゃんは、やがて僕に顔を向けて、「香代子はどこ行ったんだろうねぇ」と不思議そうに聞いてきた。 「お仕事なんだって。」 「あぁ、そう・・・」  何分か経って、おばあちゃんがまた聞いてきた。 「香代子はどこ行ったんだろうねぇ。」 「・・・お仕事なんだって。」 「あぁ、そう・・・。」  たまらなく心細かった。 「信二君のお母さんは元気やねぇ!」  突然、おばあちゃんのベッドの横のカーテンが開いて、声が飛んできた。  隣のベッドのおばさんだ。たしか、波田さんといった。さっきお母さんの挨拶に答えていたときもその声の大きさに驚いたけど、いきなり聞くと心臓が止まる。  波田さんは、『逞』という字を人にしたような人だ。ガタイが大きくて、腕も足も胴も太い。声も大きいし、低い。髪が長いから髪の長い男の人に見える。道場にいる、『ヒグマ』というあだ名の入江さんによく似ている。色だけ違う。入江さんは真っ黒だけど、波田さんは真っ白なので、波田さんはヒグマではない。  初めて波田さんを見かけたとき、お母さんに波田さんの男女の別をそっと聞いた。そしたらお母さんは、「女の人に決まってるじゃない。女の人だけの病室にいるんだから」と言っていた。 「園崎さん!いい娘さんお持ちやねぇ。頼りがいあって、ねぇ?」  波田さんがおばあちゃんに声をかけると、おばあちゃんは「はい」とも「ええ」とも聞こえるような返事をモゴモゴと口にした。 「信二君、そういえば何年生って言っとったっけ?」  僕は波田さんのことを無口な人だと思っていた。でも、違っていたらしい。ピシピシと物を言うお母さんに遠慮してたんだと思う。男同士ではあまりおしゃべりはしないもんだ。 「ご、五年生です。」 「あら、じゃあうちの子といっしょやね。あした来るから仲良うしてちょうだいね。」  はい、とは言ったけど僕は嫌だった。夏休みになってようやく学校から開放されたというのにどぉしてまたあんな連中と・・・。  病室の夕食の時間、僕はお母さんの買っておいてくれた夕ご飯をおばあちゃんの横で食べた。塩っぽい物が大好きなおばあちゃんが、僕のお弁当にあった焼鮭をじっと見ている。そっとあげたら嬉しそうに喉を鳴らして骨まで食べていた。  次の日、僕は病院には行かず、家でゴロゴロしていた。おばあちゃんの居ない家は、まるで空き家のようにガランとしている。お母さんの家に行こうかとも思ったけど、遠いし、どうせお母さんはいないだろうし、ここよりもっと空き家のような家だし、というわけでやめた。  (病室には今頃、波田さんの子供が来ているんだろうな・・・)そう考えると、「病室中を我が物顔で走りまわる猿」の様子がリアルに頭に浮かんだ。エンドレスの活動量、その一つ一つの無意味な行動・・・  学校にいる連中はみんなそうだ。際限もなく飛んだり、跳ねたり、いつもなにかしら動き回っている。それだけなら害はない。ほっとけばいい。でも、あいつらの最悪な点は、いつも群れで行動することだ。群れで動き、群れで喋り、群れで笑う。そして、仲間じゃない者を群れで笑う・・・
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