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久しぶりの出社は、 自分がサラリーマンだったことを思い出させる。
ほぼ三ヶ月ぶりの電車通勤と、街のにおい。マスク越しでも感じられる、都会の空気と質感。
午前十時、新宿高層ビル三十七階のオフィスには、狩谷隆利以外は誰も出勤していないはずだった。
電気の消えた百人収容のフロアの片隅。しかしなぜか、自分の席の隣が明るい。見れば、同い年の社員、瀬田川遙樹がぼんやりとした様子で椅子に座っていた。
マスクをしていてもよくわかる。端整なその顔が暗く沈んでいることが。
――やべ。
とっさに狩谷はそう思った。
今、あいつに会うのは気まずい。できれば本人と顔を合わせるのは避けたかったのだが、いるのでは仕方がない。
狩谷は平気な顔を保ちつつ、自分のデスクへと近づいた。
「やあ」
なるべく明るく声をかける。
すると、こちらに気づいた瀬田川が顔をあげて、「ああ」とちょっと驚いた声を出した。今日、狩谷が出社することを知らなかったらしい。
瀬田川の目元は、わずかに腫れていた。今まで涙をこらえていたのか、それとも泣いていたのか、整った涼しげな顔立ちに、ほんの少し朱色がさしている。芸能人にも負けない魅惑的な容姿が憂いと悲しみでくすんでいるのに、狩谷は同情ともうひとつ、人には言えない感情を抱いた。
「瀬田川もきてたんだ」
「うん。竹林部長と打ち合わせが入って」
相手が視線を外しながらそう答える。
「ああ。そうか」
じゃあ、正式な通達があったのだ。狩谷は納得して頷いた。
一ヶ月ほど前から、瀬田川には現在の役職であるサブチームリーダーから、チームリーダーへ昇格の話が出ていた。瀬田川は仕事のできる男で、人間関係も良好だから、何の問題もなくリーダーになれるだろうと、誰もがそう思っていた。
狩谷自身は、半年前に他のチームのリーダーになっていた。自分がなれるのだから、自分以上に業績を上げている瀬田川ならば軽いもんだと予想していた。狩谷と瀬田川は両者とも中途採用で、入社時期は狩谷のほうが半年早かった。自分が彼より早く出世したのは、彼より前に入社していた関係からだろう。
しかし不運なことに、時勢が急に変わってしまった。
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