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ひと月かけて、やっと体調が戻ってきた。歩くだけで息切れした前回より、今回はいくらかマシだった。それでも陽毬と洗車をしたら、ぼくのほうが先に音を上げた。東京の夏は躰に毒だ。
4シーターのメタリックブルーのオープンカーは、親父の愛車だった。星を見るために買ったような車だ。夕方になって、ぼくらは車の幌を開け、自動運転モードにして街を駆ける。運転席には陽毬が座った。どこかで迎え火を焚く匂いがしていた。
「晴れてよかったね。ちょっと心配してた」
「うん。あ、あんまり遠く行くなよ。見れるのなんて東京の半径百キロ程度だから」
「大丈夫、八王子の少し先にした。都内でも案外山って山らしいよね。二人とも、ほんとふらっと富士山の麓の方まで行ってたけどさ」
夏はエアコン全開、冬は毛布とホットコーヒーで。親父はこの車にぼくたちを乗せ、よく星を見に行った。周りの車がびゅんびゅん遠ざかるのに、星のほうがずっと、近くに感じていた。
流星群も何度も見た。その辺の地面に寝転んで夜空を見上げると、本当に星が降り注ぐようだった。口を開けていたら入ってきそうだと言ったら、母さんはぼくの口にこんぺいとうを放り込んだ。最後の乳歯が抜けた場所で間違って噛んだものだから、優しい味と鉄が混ざって変な味がした。
ぼくがこの道を志すと告げたときの二人の喜びようは、お祭り騒ぎかというくらいで、ぼくはちょっと恥ずかしくて、だけど内心、こそばゆいほどに嬉しかった。
人工流れ星なんて邪道だと、言わない両親でよかったと思う。彼らはそれだけ、見上げた空で起こるすべてを尊く感じていた。
『奇跡の秩序が起きてんだぞ。太陽からの距離とか月があることとか』
『そうよ、木星とかすごいのよ。あのシマシマの大きいガス惑星のとんでもない重力がなかったら、今頃地球にばんばん惑星がぶつかって跡形もないんだから』
『それってつまりよぉ、すっげくね?』
二人して日焼けした顔に白い歯を光らせ、酒を飲んではすごいすごいとケタケタと笑う。そんな気持ちのいい人たちだった。
なのに六十を迎える前に二人は逝った。わし座とこと座が全天から見えなくなったのと同じ時期だった。
夜に覆われ始めた山を上るにつれ、湿った草の匂いが強くなった。それに慣れたころ、目的の開けた駐車場についた。車がほかにも何台かあって、地面にシートを敷いている人たちもいる。
今日のショーは今までで一番大きなプロジェクトだ。流星の数も飛び抜けて多い。
「今回のこれ、どんな人たちから応募があったの?」
陽毬が水筒を傾け、タンブラーになにかを注いだ。コーヒーの香りがして、ぼくは「企業秘密」と言いながら手を伸ばす。
「あっ。なによう、けち。コーヒーあげないよ」
「けちじゃねえよ。いいからくれよ」
唇を尖らせる陽毬に、ぼくはぎこちなく笑う。
「でもみんな、親父や母さんと同じだった」
一杯だけ注いだコーヒーを二人でかわりばんこに飲み干した。陽毬とぼくは、ほとんど倒せないシートをそれでも倒し、暗闇に目を慣らすために空を見上げて待った。東の空に夏の大三角形が昇っている。陽毬の視線が、じっとそっちに注がれていた。
四人でこうして流星群を待つ時、ぼくたちはいつも無言だった。話しかければ話してくれたけど、またすぐに黙る。仕方がないからぼくはいつも星座を探した。今夜はさそり座がよく見える。
星の位置が変化するにつれ、次第に緊張感が高まってきた。射出衛星は無事に機能しただろうか。位置は問題なかっただろうか。自然の流星群と違って、人為的ミスは起こる。
腕時計が通知に震えた。
設定していた時間だ。ぼくは祈るように暗い夜空に目を凝らす。いつもよりもずっとドキドキしていた。
「あ」
遥か上空で光が爆ぜた。一つ、二つ、三つ。白い光源は、ゆっくりと長く尾を伸ばしていく。
その数はどんどん増えた。一つ消えてもまた流れて、ぼくたちに向かって降り注いだ。花火のような音も華やかさもないけど、生命が燃える確かさがあった。
「きれい……」
宇宙ステーションで、星に懸けるたくさんの想いに触れた。
宇宙飛行士になりたかった少年、熱狂的な天文ファン、写真家、プラネタリウムのオーナー。下心のない純粋な想いだ。宇宙と比べたら小さな命たちだけど、心を燃やした証明がそこにはあった。
だから、生まれた意味はある。それはとても儚くて、美しくて、確かな光だ。
「二人の、どれかなぁ……。もう消えちゃったかなぁ……」
呟く陽毬の声が潤んでいた。
「……一番最後」
ぼくは夜空に目を凝らしたまま、企業秘密を口にする。星の流れる順番だけは、箱詰めをしたぼくだけが知っている。
「職権濫用かも」
そう言ってぼくは舌を出す。陽毬が驚いたように息を飲みこっちに顔を向けた。ぼくも陽毬を見た。
「ちゃんと見てて。泣いて見れなかったとかなしだからな」
すると陽毬は慌てた様子で洟をすすり、まぶたをこすって天を見上げた。
ぼくは腰をシートからずらし、より視界を夜空で満たす。そうしてるあいだにも、たくさんの流星が間断なく落ちてきた。ぼくたちはそれらの輝きを見守りながらじっと待った。
そしてその星が爆ぜたあと、続いていた光が途切れた。
「伊緒」
「うん」
降り注ぐその星を目で追いかける。白い光は尾を引きながらゆっくりと落ちてくる。ぽっかりと開いた口を目がけてくるようだった。
光れ。光れ。コンマ一秒でいいから、長く。
最期のプラズマを見せてくれ。
ぼくたちはどちらともなく手を取り合った。祈るように固く握り、その光を目に焼きつけるように見つめた。
やがて光が消え、空に残光の筋がちらついた。だけどそれも、消えてしまった。二人分の骨が入っていたせいか、どの流星よりも長く光った気がした。気のせいでもいいからぼくはそう思いたかった。
「伊緒」
陽毬が躰を起こし、ぼくはぱっと手を開く。と、突然口に何かが放り込まれた。舌に感じたトゲと甘さに、こんぺいとうだと気づく。奥歯で噛んだら甘みはさらに広がった。
「……ガキみたいなことすんなよな」
「ありがとう」
今度はタオルを顔に押し付けられた。
「っ、陽毬――」
「みんな、すごくきれいだった」
陽毬の声の向こうから、どこからともなく拍手が聞こえた。それはとてもささやかなものだったけど、とても優しい響きだった。
ぼくたちがしたことは、誰かの心に火を灯せたのだろうか。
ふいにこみ上げた熱さに喉と目を焼かれる。こんぺいとうの甘さのせいだけじゃなかった。
ぼくは小声で陽毬に「よかった」と呟いて、タオルの上から両手で顔を覆った。
-fin-
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