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その二
お鍋がそろそろ煮立ってきた。
彦一は頃合いをはかり、台所のガスコンロに乗せたお鍋の火を止め、鰹節を袋からひとつかみして入れる。
その横では油をひいたフライパンから、ジンワリと白い煙がひとすじ。
乱切りした茄子とピーマンが、まな板の上で待機状態だ。
「まずはっと、ひき肉から炒めて。
おっと、なめことお豆腐を出さなきゃ」
朝、五時五十分。
冷蔵庫の上に置いてある、商店街の福引で当たった、安物の置き時計がさしていた。
「焼き鳥まいど」は、土日を休業日としている。
文太が開いた当初は、毎週月曜日だけを定休日とし、営業時間も午後四時から翌午前一時まで暖簾を出していたのだ。
ところが連れ合いに先立たれ、不肖のひとり息子がこさえた子ども、つまり孫たちの面倒をみなければいけなくなった。
彦一は中学へ進学しようとする年頃であったからまだしも、つぐみにひばりまで生まれ、文太は悩んだ。
つぐみとひばりが中学を卒業するまでは、学校の行事や参観日に顔を出してやらねばなるまいと。
姉妹の母親たちは我が子の成長を見る間もなく、空の上へ旅立ってしまった。
父親は親としてまったく機能していない以上、唯一の肉親にして保護者である文太が、親の役目を果たさねばならないと考えたのだ。
学校の行事は、土日を利用することが多い。
また孫たちに、朝晩の飯を食わせるためには、営業時間を短縮せねばならない。
そのため、「焼き鳥まいど」の休業日は毎週土日の二日間をとり、午後五時から十一時までの営業時間と改定したのであった。
今日は、その土曜日。
彦一が昨夜仕事のすべてを終わらせて布団にもぐりこんだのが、午前一時半前。
本来なら五日間働いた心身を休めるために、最も必要なのは睡眠であろう。
ところがわずか四時間少々の眠りで
目を覚ました。
なぜか。
休日だから、である。
いろいろとやりたいことが、あるからだ。
ダラダラと長時間布団に入っているよりも、短時間でもぐっすり熟睡すれば、爽やかな目覚めを迎える。
まあ、昼前後には、仮眠を取りはするのだが。
絢辻家の朝は、よほどのことがない限り午前六時半には、そろって座卓を囲んで朝食をいただく。
「定年退職」を宣言した文太は、頻繁に友人たちと飲みに出かけるも、土日だけは家族全員で朝ご飯を食べる。
彦一は好きなロックのフレーズを口ずさみながら、ショッキングピンクもまばゆい、フリル付きメイド用エプロンを作務衣の上にまとい、朝ご飯を作っているのであった。
今朝は鰹節で出汁をとったなめこと豆腐のお味噌汁、茄子とピーマンのひき肉味噌炒め、さらに昨日お店でだした、つきだしの残りを座卓に並べていく。
つきだしは、タコとワカメの酢のものだ。
刻んだ生姜が、アクセントになっている。
ドタドタッ、と階段を駆け下りる音に、彦一は振り向いた。
「彦ちゃーん、おっはようございまーす」
ひばりだ。
平日は起すまで夢の世界で楽しんでいるのに、土日だけは二番目に早く起きてくる。
天然ウエーブの柔らかそうな髪を頭頂部で結わえ、桃色のTシャツに膝丈のトレパンを履いている。
「おはよう、ひばり。
もうすぐできるから、座って待ってな」
「せっかく早く起きたのだからぁ、アタシだって、お手伝いするんだもーん」
「そっか、それはありがたいな。
じゃあさ、みんなの箸や茶碗をたのむわ」
「わかりましたあ、彦ちゃんシェフ!」
まだあどけなさの残る妹の後ろ姿に目を細め、彦一は首をかしげた。
「あれっ、ひばり。
そのトレパンってさ、学校の体操着じゃないか」
「うん。
だってえ、アタシのお気に入りのショーパンがぁ、破れちゃったんだもん」
口元を尖らせる、ひばり。
「同じのばっかり履くからだよ。
どれ、あとでにいちゃんが繕っておくから。
なんなら新しいパンツを買いなよ、お金ならあるし」
「はーい。
でもぉアタシは、お気に入りが好きだからぁ、彦ちゃんに縫ってもらうの」
ガラッと居間の障子を開いて、文太が入ってきた。
ランニングシャツにステテコ姿だ。
「文ちゃん、おはようっ。
今朝はぁ、おうちにいたんだね」
「じいちゃん、おはよう」
「おう、おはよう。
ひばりよう、じいちゃんは真面目だからな。
ちゃんと家で朝ご飯をよばれるのよ」
彦一は舌打ちをしながら、眉をしかめる。
「なあに、言ってんの。
たまーに家にいたからって。
それよりも、じいちゃん。
もう年齢を考えてくれなきゃ困るよ。毎晩毎晩飲み歩いてさ」
「おっ、彦っ、おめえはわしに、説教しようってえのかい」
「そうだぞう、彦ちゃん。
文ちゃんはこう見えてもぉ、『焼きの文太』ってえ、二つ名があるんだぞう」
「いや、ひばり。
それは昔の話であって」
「さすがはひばりよ。
わしの孫だけあって、話がわかる」
文太はひばりと目を合わせ、うなずいた。
「わかったから、わかったから。
それよりもつぐみは」
言ったそばから、階段を勢いよく下りてくる音が居間に響いた。
「ああっ、また寝坊だわ、わたしったら。
絢辻家のみなさま、おはようございまぁすっ」
長女は頭をかきながら、照れ笑いを浮かべた。
ブルーのスエット上下で、冷え性のため常に靴下を履いている。
「さあさあ、定位置に着席してくださいよ。
今日はひばりが配膳担当だからね」
広い座卓に、次々と朝食が並べられる。
彦一は箸休めにと、塩もみした胡瓜とみょうがを入れた器を、冷蔵庫から取り出し、器に盛る。
塩は少量しか使用していないので、ここへ塩昆布をまぶす。
ひばりは大皿に味噌炒めを移し、座卓に運ぶ途中で一口頬張り、満面の笑みを浮かべた。
テレビがつけられ、ニュースを耳で聴きながら朝食タイムが始まった。
「あっ、おにいちゃん。
わたしね、お昼前から大学へ行かなきゃならないの。
このお茄子、美味しい」
「そうか。
だったら、お弁当でも作ろうか。
お握りとか」
「あら、嬉しいな。
じゃあ、お願いします」
「この酢の物はよ、隠し味にアルコールを飛ばした日本酒を、ちょっと入れると、格別だぜ、彦よ」
文太がタコをつまんで、口に放り込む。
「そうか、じいちゃんのあの味の秘訣はそれかぁ。
勉強になりますっ」
「ああん、彦ちゃんったらぁ。
ピーマンを取りすぎー。
ちゃんとお茄子とピーマンのぉ、黄金比を考えて食べなきゃ」
「お、黄金比?
それは失礼。
味はどうよ」
彦一は味噌汁を飲みながら訊く。
ひばりはVサインを、勢いよく突きだした。
「彦ちゃんって、本当にお料理上手だねえ。
これだとぉ、あと二杯はご飯をお替りできるな、うん」
ひばりはすでに二度、ご飯をお替りしている。
「じいちゃんは、どこか出かけるのかい」
「わしは夕方に、ちょっくら老人会へ顔を出さなきゃならん。
なんといっても、陽だまり町老人会の、専務理事だからな」
「へえーっ、おじいちゃんが専務理事なんだ」
「さすがは『焼きの文太』だねえ、文ちゃん」
「いや、きみたち。
このじいさんは、単に飲み歩いているだけよ」
彦一にズバリと指摘され、文太は顔を隠すようにご飯茶碗をかたむけた。
「おにいちゃんはどうするの?
せっかくの休日なんだから、たまには出かけたら。
みどりさんと」
つぐみは、からかうつもりでそう言った。
いつもなら、「な、なにを言うのよこの娘さんは。俺とみどりんはただ同級生ってだけで」と顔を赤らめるのに、今回は真顔で答えた。
「うん、実はそうなんだ。
今日はみどりんとね」
話を続けようとしたところで、姉妹が一斉に甲高い声を上げた。
「エエーッ!
いよいよおにいちゃんが、みどりさんと正式にデートですってよ、みなさんっ」
「わかったわ、ふたりで挙式をどこで執り行うのかぁ、相談するのねえ!
イヤーンッ、彦ちゃんがいよいよお嫁入りだあっ」
「そうかい、やっと彦も身を固める決心がついたってわけだな。
よし、段取りはこの専務理事に任せろい」
「いや、ちょ、ちょっと待ったぁ!
誰もそんな話はしていないし。
それにひばりくん、俺はおにいちゃんだよ。
オトコなんだよ。
なぜその俺がお嫁入りになるの、これが」
ひばりはつぐみと顔を見合わせて、大きくうなずいた。
「彦ちゃんはぁ、家事全般なんでもござれなんだからあ、お嫁さんタイプなんだよぉ」
「そうね。
腕っぷしだって、みどりさんのほうが格段に上だし。
男前の美人さんでしょ」
彦一はうなだれた。
「だから、そんなんじゃなくて。
あっ、そうだ。
ひばりは予定あるの?」
「まあっ、お年頃のレディに向かって訊く質問ではなくてよ、彦ちゃん。
アタシはぁ、毎日が超多忙JKなんだからね」
「そうだよなあ。
ジェ、ジェイケイ?」
「と、言いたいところではありますが。
アタシはぁ中間考査に向けて、ねじり鉢巻きで、猛勉強しなければなりません、とほほーっ」
三杯目のご飯と二杯目のお味噌汁を美味しそうに食べながらも、しょんぼりと肩を落とす。
彦一はまだ手をつけていない自分用のタコの酢の物を、そっと目の前に座るひばりのほうへ押しやった。
しょんぼりしていたはずのひばりの大きな瞳が、突如輝きを増した。
「いやね。
実はみどりんから、相談を受けちゃってさ。
それがほら、ひばりもお世話になってる、あの英会話教室のアンディさんの件らしいんだ」
「えっ、ミスター・アンディ?」
ひばりはネイティブの発音で、先生の名を口にした。
つづく
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