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頃合いを見て長屋に戻ると、源造の家以外は割合静かになっていた。
辰吉もとうに家に戻っていたようで、中からは飯の匂いがしている。夜気に躯がすっかり冷えていて、ぼろ家でもいいから温いところに早く入りたかった。引っ掻いた戸がいつも通りに開けられると、そそくさと中に走り込む。竈の前でぶるぶると躯を振っているおれを、辰吉は不意にひょいと持ち上げた。抱き上げられるのは嫌だったが、暴れたら鍋ん中に落ちそうで、仕方なくじっとしている。強ばったおれの背中を撫でながら、辰吉はひとつ大きな息を吐いた。
「…ああいうなァ苦手だ」
熱いくらいに温かい手は大きくて、片一方だけでおれをすっぽり包んでしまう。もう片方は、時折鍋を混ぜちゃあ、しゃもじを置いて背を撫でた。そうしながら、辰吉は独り言を続けていた。
「俺の親はどっちもとっくに死んでてよう、そいつを思い出しちまっていけねえや」
らしくもなくしんみりとした声色で、なんだかおれに話して聞かせてでもいるようだ。相槌でも打ってやれれば良かったんだろうが、鳴いたところで伝わりゃしねえしな。
「餓鬼の頃は、ここよりずっと川上に住んでてな。鉄砲水で家ごと流されちまった。あっちゅう間に泥水に飲まれて、俺だけが大木に引っかかって助かった」
抱えられているせいで、辰吉の心の臓がとくとくと脈打ってるのがよく聞こえた。その音はしっかりと、遅れることも速まることもなく、力強く鳴っている。
「…この辺りの泥ン中から見つかったときにゃあ、二人ともボロっきれみてえになっててよぉ」
陽に灼けた顔が、いつもより近くにある。角張った顎、大きな鼻、硬そうな頬、厚い唇、どれも頑丈そうで、あの妖の細面とは真反対だ。
それに、こいつの顔からは気持ちってやつが伺える。人じゃねえおれにすら、今こいつが泣きそうなほど辛いってのが判る。
「人が死ぬのは当たり前のことだろうが、アレはねえ」
随分弱ってんじゃねえか。
呻くように呟いた顔はいつも通りごついのに、寄せた眉と顎の下の皺がそう思わせる。
「なんつうかよう、布団で死ねるだけありがてえじゃねえかって、どうしても考えちまうんよ」
婆さんになるまで生きたしな。
そうつけ加えて、辰吉は黙った。
───そう。源造んとこの婆さんが二三日前から伏せってたのは知ってた。もう歳も歳だし、それほど長くは保たねえだろうってことも分かってた。でも、辰吉は違うじゃねえか。死ぬと言われたところで辰吉はまだ若いし、身体も頑丈にできててぴんぴんしてる。
そう簡単に死にやしねえだろう。
さっき、俺はそう考えて妖を見返したんだった。あいつは目を瞑っているのに、おれが疑いの目を向けたのを悟ってか、嗤いもしねえのに口の端をくっと上げた。
「病で死ぬとも限らぬがね、必ず近いうちに死ぬ。その証拠に」
と、おれを綺麗な白い指が差す。
「おまえに移るほど、死際の匂いがし始めている」
驚いて、自分の躯を嗅いだ。死際の匂いってなんだ? そんな変わった匂いなどしない。
「それは、私のようなものにしか判らぬよ」
今度は鼻先を男の方にやった。こいつからはいつも通りの匂いがする。夜の匂いだ。ひやっとした、真っ暗闇の匂い。他の人間と違っているのは、こいつが妖だからなのか。
ならばやっぱり、辰吉は死ぬんだ。
こいつは、辰吉の魂を喰らうときを待ってここに居るんだから───
辰吉が死んでいなくなるのは辛い。それは単に飯をくれる奴がいなくなるって話なんだろうが、それだけじゃねえ、嫌な心持ちになった。躯ん中ががさがさとざわつくようで、どうも落ち着かねえ。
おれは飯を食い終わると、わざといつもと同じように家を飛び出した。
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