流れ落ち往く間に

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 湿った夜の気が少しずつ温まりだしたころ、鼻先にふわりと湯気が触れた。長屋の禿げかけた土壁を伝って、飯の炊ける匂いが漂ってくる。  おれは束ねた縄の上で身を起こし、ゆっくりと躯を伸ばした。ついでに大きくあくびもひとつ。ぶるりと身を震わせて夜露を払い落とすと、前足を一舐めして軽く顔を拭った。  長屋の奥に何枚も立てかけた板のてっぺんは、誰にも邪魔されないおれだけのねぐらだ。そこからひょいと飛び降りて、土塀との隙間から出る。  この長屋の辺りは人が少なくて、おれみたいなのが一匹くらい棲みついたって文句を言うような奴もいねえ。前にいたところは大きなお(たな)が並ぶ大通りだったから、人や荷車がひっきりなしに通っていて落ち着かなかった。そこらを歩くのもままならねえし、棒きれで追い立てられることもしょっちゅうだった。ここはそっからあんまり離れちゃいねえとこなのに、住んでる奴らはあっちよりずっとのんびりと穏やかだ。どうしてこうも違ってくるんだか、まったく人ってやつはよく分からねえ。  さてと、そろそろあいつも目を覚ましてるだろう。仕事ってやつに出かける前に、飯の催促に行かねえとな。  ねぐらの真横にある、長屋のどん詰まりの家が最近の餌場だ。ここに一人で住んでる図体のでかい若い男が、強面に反してなかなか気のいい奴なのだ。名を辰吉という。最初に出会ったときからおれをえらく気に入った様子で、その日からずっと飯を食わせてもらっている。いつもいやってほどおれを撫で回すのには参るが、それで腹が満たされるんだから文句は言えねえ。  いつものように板戸をかりかり引っ掻くと、立て付けの悪いのをがたがた言わせて開け、辰吉は寝起きのぼんやりした顔を覗かせた。 「おお、今日も早えな」  間延びした声を無視して、板間に上がり、隅に片付いてる布団の上に寝転がる。まだ人肌の残る布団は、縄の数倍温くて柔らかい。うっかり寝入ってしまわないように、毛を撫でつけるのに集中した。 「おめえ、朝に晩に飯食いに来るんなら、もううちに住みゃあいいのによ」  鍋の中を掻き回しながら、辰吉はお決まりの文句を言う。こいつは毎日同じことを言うのだが、きいてやろうとは思わねえ。これ以上撫で回されるのも御免だし、そもそも決まった家に飼われる気がねえからな。人ってのはどうも一つところに縛られたがるようだが、おれはどうせなら気まぐれにいろんなところに行ってみてえんだ。だからこの辺にだって、少々長居はしたが、そのうち見切りをつけるつもりでいる。それは今日かもしれねえし、もっと先の話かもしれねえ。いつだかしれねえ思い立ったそのときに、何処へとも決めずに気の向く方に……。  そんなことをぼんやり考えている間に、飯の用意ができたようだ。辰吉が椀を二つ持って板の間に上がってくる。駆け寄ったおれの前に片方の椀を置き、自分もその横に胡座をかいた。おれは椀に鼻先を突っ込んで、丁度に冷ましてある雑炊を遠慮なく味わう。  辰吉はいつも俺が食い終わるのを待って、おれの頭といわず背中といわず撫で回した。 「よしよし、だいぶ毛艶も良くなってきたな」  ここに来るようになってからは食いっぱぐれることもなくなって、みすぼらしかった見てくれもだいぶ良くなった。雨空に似たこの毛の色は珍しいようで、ここいらじゃおれ以外にこんなやつを見たことがねえ。それは辰吉もそうだったのだと言い、毎日おれを撫でる度に綺麗だと褒める。それが、撫で回されるのと同じくらい、くすぐったい気がしてならねえ。  ごつい大きな掌は更に無遠慮に動き、おれをひっくり返して腹を撫ではじめた。噛みついてもお構い無しで、むしろ嬉しそうに目を細めやがる。 「そうかそうか、もっと思い切りやっていいぞ」  力一杯やってるのに、あっちには全然効いてないようで腹が立つ。片っぽうだけでおれを一掴みできるほどでけえ手だから、引っ掻こうが蹴りつけようが勝ち目がねえのも当たり前かもしれんが。 「しかし、おめえ、ちいとも大きくならねえな」  うるせえ、余計なお世話だっての。  おれはもう十分おとなの年頃なんだが、がきのころから、ずっと痩せっぽちのちびのまんまだ。気がついたらひとりだったんで、親やきょうだいもそうだったのかは知らねえ。そんなのがいたのかどうかも分からねえが、いたとしたら、おれだけ毛色が違ってたせいで置いて行かれたのかもな。別にそうだとしても怨んじゃねえし、恋しいとも思わねえ。生きてようが死んでようがなんの気も起きねえから、とっくに関係ねえもんなんだと思ってる。  いい加減暴れるのにも疲れる頃、やっと辰吉は手を引っ込めた。満足顔で椀を取り、すっかり冷めた飯を食い始める。やれやれ、今日もまた派手に弄り倒してくれたもんだ。せっかく整えた毛並みが台無しじゃねえか。まあ、どうせ動きゃあ乱れるし、いいか。  おれは立ち上がって全身をぶるぶると振った。 「お、なんだよもう行くのか。つれねえなあ」  辰吉と空の椀から離れ、戸口で待つ。食い終わるまでなら待ってやってもいいんだが、せかされていると感じるのか、辰吉はいつもすぐに下りてくる。戸が開くのを待ちかねて駆け出すと、後ろから声をかけられた。 「また晩も来いよ、猫!」
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