流れ落ち往く間に

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 長屋を出て、通りを跨いだ向こうには川がある。水は苦手だが、散歩ついでに眺めるのは悪くねえ。そこの土手っ縁に、いつからだか変わったやつが来るようになった。ひょろっと細長い男で、何が楽しいんだか日がな一日草の上に寝っ転がっている。他の人間みたいにあくせく働きもしねえし、誰かが一緒にいた事もねえ。あんまり動かねえから落ち着くし、傍に寄ると妙にひんやりして心地がいいもんで、ここんとこは毎日会いに来てやっている。  土手の上から覗いてみれば、まだ靄も晴れてねえってのにあいつはもうそこにいた。いつ来たってこうだから、ひょっとしてここに寝泊まりしてんのかもしれねえな。川っ縁じゃあ夜はまだ冷えるだろうのに、もうちっとましなねぐらを見つけられんもんかね。青々と葉を茂らせた桜の下で長くなって、死んでんだか生きてんだかってくらい動かねえ。そのくせ目を閉じているが眠ってもいないようで、いつもおれが近づく前に声をかけてくるのだ。 「今日も来たのかい。酔狂なことだねえ」  髷に結わないままの真っ黒い髪を散らして、なまっ白い顔が上向いている。瞑った青白い瞼は長いまつ毛が縁どり、すっと通った鼻はつんと高い。前に町で見た芸妓だってここまでの器量じゃなかったが、こいつは男だし、笑うどころかにこりともしねえ可愛げのなさだ。いつも死人みてえな虚ろな顔をしていて、昔見た大店の人形の方が余程愛想が良かったと思う。 「あんまり傍に来ちゃあいけないと言ったろう」  そう言う割に追い払うでもないから、気にもしねえで隣に座った。おれも寝転がりたかったが、草に降りた夜露が冷たくて気持が悪い。いっそのこと、こいつの腹にでも乗ってやろうかと、鼻先を脇腹に擦り付けてみた。…ああ、こいつからはなにか他とは違う匂いがする。暗くて冷たくて、でも優しい匂いだ。 「…まったく、仕様のない子だ。…ん?」  男はふと喉を反らすような仕草をしたかと思うと、不意に目を開いておれを見た。 「おまえは、辰吉さんに飼われているのかい?」  こいつ、辰吉の知り合いだったのか。そう思ったのを聞きでもしたように、 「いや、私はそういう者ではないよ」  と男は答えた。声は穏やかで、風に溶け込むほど柔らかく、流水のように冷たい。 「そろそろのようだし、辰吉さんからは離れるがいいよ。私からもね」  そう言って、おれの鼻先をつついて、また目を閉じてしまった。おれにはその意味がさっぱり判らねえから、頷くことも返事をすることもなかった。  男の腹に寄り添い、またその匂いに包まれる。乾ききらない夜露混じりの微かなそれは、一人うずくまる闇の中を思い出させた。  目の前には、いつものようにゆらゆらと流れる川がある。水面は薄紅と白の混じる空を映して、やけに綺麗に光って見える。おれはなんだかそれが恐ろしくなって、だけども背を向けることもできなくって、ただずっと睨むように川を見ていた。
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