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薄ら寒さに目を開けると、辺りにはもう薄ぼんやりした茜色が混じっていた。いつの間にかだいぶ陽が傾いている。川を睨んでいるうちに眠っちまったのらしい。腹も減ってきたし、そろそろ行こうかと首をもたげる。勝手に出たあくびに顔を拭っていると、隣の男も起き上がった。珍しいこともあるもんだ。
「おや、起こしたかい? なに、ちょっと野暮用でね」
男はにこりともしないでおれを見下ろして、ふわりと、草が風に揺れるみたいな軽さで立ち上がった。
なんだ、何処かに行くのか?
滑るように土手を上がる、その足取りを追う。男は振り向きもせず、よく通る声でおれを止めた。
「ついてきても面白いことなどないよ」
そう言われても、やめる気はない。こいつが寝転がる以外のなにかをしているところが見てみたかった。
男は通りを横切り、長屋の方に足を向ける。長屋の通りに入った途端、漂う夕餉の匂いを裂いて、叫ぶような声がした。
「先生呼んでくる!」
同時に二つ向こうの板戸が勢いよく開いて、女が一人、転げそうになりながら飛び出してきた。確かここんちの嫁のみつだったか。どうしたどうしたと、長屋の連中がそれぞれの戸口から顔を出す。それに構わず血相変えて走って行くみつのすぐ横を、避けるわけでもなくするりと男は通り抜ける。そのまま、開けっ放しの家に悠々と入ってしまった。
中を覗くと、薄い布団に寝ている婆さんの横に、息子の源造が座っているのが見えた。明らかに場違いな男が家に入ってきているのに、まるで気にしていないどころか、気づきもしない。今にも泣きそうな顔して、婆さんの枯木みたいな手を握っているばかりだ。
男は黙って婆さんの枕元に立った。そんな事をしているのに、なんで咎められないのか分からねえ。
やがて、握られている婆さんの手から力が抜けた。
ああ、死んだな。
人が死ぬところなんか初めて見た。あっけねえもんだなあなんて思ってる間に、婆さんの全身から小さい光の粒がいっぱい湧き出してきた。
ありゃあ、いったいなんだろう。
粒はゆっくり尾を引きながら浮かび上がって、丁度男の胸の高さくらいに集まり始めた。それは飴玉ほどの丸い塊になり、ふらふらと頼りなく光りながら、吸い寄せられるように男の方へ向かっていく。男はその光の玉を徐ろに摘むと、自分の口に放り込んだ。おれは仰天して、背中から尾まで全部の毛が逆立った。
こいつ、今、何を喰った?
「母ちゃん!」
源造が泣き喚きながら婆さんを揺すったが、どんだけ呼んだって婆さんが帰ることはない。あれにはもう何も入っちゃいないんだ。空になった身体が、されるがままに揺れるだけだ。
男は顔色ひとつ変えず、入った時と同じように悠々と家から出てきた。源造の泣き声に長屋の連中が集まってきたが、やっぱり誰も男を見咎めやしなかった。
誰にも、あいつが見えていないんだ。
「コラ猫、ちっと向こう行っとれ」
誰かが、戸口で固くなっていたおれを持ち上げて脇へ退けた。それを合図にしたように、何人かが戸口から中に声をかけている。おれは、慌てて男の背中を追っかけた。
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