流れ落ち往く間に

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 婆さんの臨終はすぐに長屋中に広まって、風が渡るように辺りをざわつかせた。細い通りを行き来する者が増えたが、男は構わずにすいすいと人の間を通り抜けていく。避けているわけでもねえのに誰にもぶつからず、その上、すれ違う誰もが男に見向きもしなかった。まるで、そんな者などここにはいないかのように。  踏んづけられねえように避けながら、なんとか男の後を追う。ここにいるより、あいつの方が気になるし、なんだか面白そうだ。源造を見舞う者の中には辰吉の姿もあったようだが、横目にちらと入ったちょうどそのときに、 「まだついてくるのかい」  振り向きもせず、男が言った。小声なのに、耳のすぐ傍で言われたみてえにはっきり聞こえて、背筋がぞわりとする。思わず立ち止まった隙に辰吉を見失って、後でいいかとまた歩き出した。男は続けて言う。 「あまり傍にいると、魔性が伝染ってしまうよ」  ───魔性。  そうか、こいつは化け物だったのか。ならば、人間どもの態度も納得できる。人間(あいつら)には見えてねえんだ、こいつのことが。  そんでこいつは、婆さんからなにか──あれは魂ってやつだったか──を喰らった。喰らうために待っていたんだろうか。婆さんが死ぬのを、あの場所で。だとしたら、なんとも気の長いことだ。化物らしく、襲って喰らっちまった方がよっぽど手っ取り早いじゃねえか。そもそも人間なんて沢山いるんだから、なにも死にかけの婆さんを狙うこともねえだろうに。  辺りはもうすっかり暗くなっていたが、男はよく見えてでもいるように、危なげなく歩いていく。川っ縁まで来た頃に、提灯を下げた人影が足速にすれ違っていった。多分、みつと医者先生だろう。気の毒だが無駄足になったな。 「さあて、次までまた少し間が空く」  土手を降りて、いつもの場所に寝転がると、男は間延びした声で呟いた。あんなんで腹が脹れたとは到底思えねえが、また死人が出るのを待つつもりなのか。しかし、次、ってのは誰のことだ。 「次が気になるって顔だねえ」  そう言った男の顔は、ひとつも動いていないくせに、なんでか苦しげに見えた。言いにくいことなんだろうか。  おれは男の傍へ寄って、その生っ白くて冷っこい腕に鼻先を擦り寄せた。そんな顔にさせる相手が、どうにも気になった。  男はおれの額を一撫でしてすぐに手を離し、ゆっくりと答えた。 「次はね、多分、辰吉さんだ」  声色は変わらず、おれを撫でた指と同じくらい冷たい。  次は辰吉。辰吉がどうなるって? 「あの人はもうすぐ死ぬ。魂が身から離れる。そうしたら魂を喰らうことが出来る。ここいらの人間が死ぬときにだけ、それを喰うことが出来るのさ」  柿や蜜柑がなる話みてえに言われて、少し妙な気持ちになった。それが顔に出ちまったらしい。 「おまえは優しい子だね」  男は手を伸ばし、またおれの顎を撫でた。冷っこい指は耳の裏を伝い、頭のてっぺんを撫でて引っ込んだ。  優しいなんて、言われてもよく分からねえ。余計おかしな気になって、なんだか痒いような顔を擦る。 「私はね、人の魂を喰らいはするけれど、それ以外に出来ることがない。命を奪うことも、死人にそれを与えることも。理に逆らうことは出来ないのだよ」  そう言った声に抑揚はなかったが、妙に淋しげに聞こえた。コトワリのなんのと、そんな難しい事を言われても、おれにはよく分からない。分からないけども、辰吉を助けられない事をおれに諭しながら詫びているように聞こえた。それでおれは、この綺麗で感情の薄い妖を嫌いじゃねえなと思った。 「万物には理がある。そいつは美しくて脆そうなのに頑丈で、大河の如く、進む路に融通が利かぬ」  妖はそう言いながら仰向く。つられて見上げれば、空いっぱいに星が光っていた。固まって白くぼやっとしたのや、まばらにちらちら光ってんのも全部、その小さな光の粒は、さっき婆さんから湧き出てきたものによく似ていると思った。 「大河の流れは曲げられない。曲げようとすれば溺れる。私のように」  不意に、小さい光が一粒、滑り落ちるようにして消えた。あんまり急だったんで身が竦む。それは、あっという間よりもっと速くて、なんだかよく分からねえまま背をぞくりと震わせた。 「さあ、そろそろお行き。辰吉さんのところへ戻るもどうするも好きにすりゃあいいが、もう私の傍には寄らないことだ」  妖はこっちを見もしないで言うと、目を閉じた。
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