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松岡伊織がマンションに帰ったのは十一時頃だった。会社の飲み会に無理矢理連れていかれ、上司の武勇伝を永遠と聞かされていた。伊織は酒が苦手だったので、一杯だけ梅酒を飲んだあとは烏龍茶ばかり飲んでいた。
エレベーターは一階に止まっていた。なので待つことなく乗れた。七階のボタンを押す。出てすぐ左に曲がり、突き当たりにあるのが彼女の部屋だった。部屋の前には階段がある。
廊下に出ると、ちょうど他の住人が部屋に入ろうとしているところだった。その住人は山崎というおそらく30代の男で、伊織の隣に住んでいる。彼も仕事帰りらしく、スーツ姿だった。
「こんばんは」
伊織から先に挨拶した。
「こんばんは」
男が挨拶を返す。すれ違った時は基本このやりとりだけだ。しかし、この日は違った。
「あの、すみません」
鍵を探そうと鞄を漁っている時だった。
「あ、はい。なにか?」
「もしよかったらなんですけど、これ」
そういいながら男は片手を差し出してきた。その手には見覚えのある箱が握られていた。
「上司からシュークリーム貰ったんですけど、実は僕苦手でして。よかったら、どうです?」
照れ笑いのような顔を男は浮かべた。
「え、いいんですか?」
半ば反射的だった。
「どうぞどうぞ。ついさっき頂いたものなので、全然問題なく食べれると思います」
「あの、その、ありがとうございます」
「全然気にしないでください。それじゃあ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
男が部屋に入ると、鍵を閉める音がした。
伊織はシュークリームの箱を掲げるようにして見る。そして、小さくため息をついた。
――どうすんのよこれ。
冷蔵庫の中には、山崎からもらった箱と同じものが入っていた。先日、彼女の上司から頂いたものだ。しかし、未だ手をつけていない。彼女もまた、シュークリームが苦手だったのだ。男と一緒で断れず、ついつい受け取ってしまった。次また同じようなことあれば勇気を出して断ろうと決意していた。どうやら、その決意は脆かったみたいである。
伊織はシュークリームの箱をテーブルに置いた。一人暮らしの冷蔵庫には入りきれなかったのだ。冬なので、すぐには傷まないだろうと思った。というより、もうシュークリームのことは考えたくなかった。
シャワーや洗濯やらを済ましているうちに、あっという間に日付けが変わろうとしていた。さらに座椅子に腰かけ、録画したドラマを堪能していると、一時になっていた。一時間ごとに音楽が流れるトトロの掛け時計がそれを報せてくれた。
「もうこんな時間か」
明日も仕事だった。用事は一通り済んでいるので、寝ることにした。電気を消し、アラームを六時半にセットし、ベッドにダイブする。
はっ、とすぐに上半身を起こした。忘れていた。コンタクトレンズをしたままだった。
部屋は暗いままだったが、外すのは困難ではない。慣れた手つきで摘み、人差し指にレンズを乗せた状態でケア剤を探す。たしかナイトテーブルの上に置いていたはずだ。
伊織の予想通り、そこにケア剤はあった。手を伸ばそうとする。その時、ナイトテーブルの前に配置しているゴミ箱が気になった。
見てみると、中に変なのものが入っていた。暗いのと、視界がぼやけていたのもあって、それが何なのかは分からなかった。ティッシュではなさそうだ。
伊織が躊躇いなくそれを取れたのは、ここが彼女だけの部屋だったからだ。一人暮らしでもなければ、少しは警戒してたかもしれない。
彼女はそれに触れると、訝しくなった。ぬめぬめしていた。何だろう、と顔に近づけてみた。
異臭がした。それが何なのか分かり、ひっ、と悲鳴が漏れた。
彼女は咄嗟に、それを素早く投げ捨てた。壁に当たり、間抜けな音がした。条件反射で、手を激しく擦るようにズボンで拭く。
どうしてあんなものが。身に覚えはない。恋人はここ一年いない。セフレもいない。だから、あんなものがあるはずない。
使用済みのコンドームなんて、あるはずない。
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