爪痕

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 千乃はまっとうな会社で働いているようだった。ハリがあるスーツを着て毎朝決まった時間に家を出た。  それをすこし疎ましくも思ったが、千乃自体にいやらしさはなかった。千乃が仕事で居ぬ間は自由に暮らした。千乃は帰ると疲れも見せずに晩飯を作った。俺は猫を膝上に乗せながら、毎日その様子を見ていた。あの夜、居酒屋で声をかけたのは正解だった。そう思った。  定職をもてていないゆえ、たいてい家で暇を持て余すが、たまに解体現場の仕事が入れば一日働く。疲れて帰ると猫がすり寄ってくる。みゃお、と鳴く。そんなときはきまって猫を抱き上げ、顎下をさすってやった。  シーリングライトに照らされるフローリングは光を反射させていた。陰影が浮かんでいた。光があたると傷でいっぱいなのが分かる。特に玄関あたりは傷が多い。 「おっまえさ、床で爪磨ぐのやめろよな」  そう言って撫でると、猫はまた、みゃお、と鳴いた。    ある夜。吐息を荒立たせて千乃を抱いた。千乃は、果てても果てても求めるだけ受け入れる。果てようとすると、千乃はいつも爪を俺の腰にたてて俺を引き寄せた。離すまい、というように。あとは欲望のままに千乃の奥底で果てた。  どうとでもなるさ、と思うことにし、瞼の重さのまま目を閉じた。猫がしきりに鳴いているのが聞こえていた。うるさいなと思いながら眠りに落ちた。  起きると、千乃はその日も決まった時間に仕事へ出ていた。猫がすり寄ってきた。床の傷を猫の向こうに見やり、猫を抱き上げた。肉球に触れようとすると、猫は嫌そうに足を振って逃れようとした。猫の足が指をかすって気づいた。 「あれ、お前。爪そんなに伸びてないのな」  その日は現場が入っていなかった。部屋でただ過ごしていた。点けていたTVはつまらないワイドショーで、膝上の猫を擦るしかやることはない。  と、猫が膝からひょいと降りた。慣れたように歩き、ダイニングテーブルの前で毛繕いをしていた。前足で盛んに目のあたりを擦っている。猫はやがて、テーブルの脚で爪を磨ぎだした。  テーブルの脚は傷だらけだった。 「お前……爪、これで磨いでんのか?」  そう問いかけても、猫は、みゃお、としか鳴かない。  ふと、気になった。  猫を抱えて玄関へ向かおうとした。猫はしきりに鳴きだした。その鳴き声は玄関が近づくにつれて大きくなり唸りの激しさを増した。猫はとうとう暴れだした。嫌がっていた。抜け出そうとする猫を離すまいと手に力を入れた。前足を無理に引っ張り、玄関の爪痕に合わせてみた。  爪痕は、猫の爪の幅とは違っていた。玄関の傷は猫のそれより細い。リビングの床を見ると陽光でフローリングの傷が光っていた。その傷はどれも太い。玄関の傷は猫のものではなかった。  ぶううんと音がして冷蔵庫が中身を冷やし始めた。背筋を冷たいものが走り、猫は緩めた俺の手からすり抜けて窓際まで逃げた。  みゃお、と鳴いた。  猫が何を喋っているのか教えてほしかった。
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