爪痕

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 その夜、千乃と身体を合わせることはしなかった。ぴとりと千乃がくっついてきたが、寝たふりをした。気分じゃなかった。  千乃の素性を全く知らないことに気づいた。居酒屋で千乃という名を聞いただけだ。何歳なのか、どこで働いているのか、そもそも本当に働いているのか、こんな俺をすんなりと招き入れて身体を受け入れる。そんな都合の良いことがあるだろうか。  何時間が過ぎたか。  落ちそうになる瞼を堪えながら、作った寝息をたてていると、千乃の体温が離れた。  水でも飲むのか。遠ざかる千乃の足音を聞くため鼓膜に神経を注いでいた。こくりと音をたてないように唾を飲んだ。  千乃の足音はひたひたと歩く音ではなく、すたすたと軽快に歩く音でもない。摺り足のような、いや、まるで引きずられような音を鼓膜が拾った。  ぎいぃ  足音がとまったと同時にそんな音がした。  削るような音、爪を磨ぐ音だ。  ぎいぃ  鼓動が早まるのを抑えようと、胸を掴んだ。首すじにヒヤリとした汗が伝った。  ぎいぃ  爪の音だ。  猫であって欲しいと願った。  引っ掻く音が忙しなくなってきた。玄関の辺りから聞こえてくる。  すぅ、と足下で息が聞こえた。眼球だけ動かすと、足下で猫が寝ていた。  爪を磨いでいるのは猫ではない。  首を、そっと、見つからないように、玄関のほうへひねった。  玄関は暗がりだった。  見えないが、音は聞こえた。ぎいぃ、ぎいと爪が逆立つ音だった。  ふと、玄関扉が開いた。隙間から小さな明かりが差しこんだ。差し込んだ光に這いつくばる女の姿が映った。  薄く開いた玄関扉から手が伸びてきた。黒く大きな手だ。息すらできない。身体が硬直した。玄関で這いつくばる女が、いっそう爪の音を忙しなくした。大きな黒い手が女の足を掴んだ。必死に床に爪をたて、女は抵抗した。ぎぃぎいと耳を塞ぎたくなる音が響いた。足下の猫が震えている。  玄関扉がさらに開き、光が漏れた。女の顔が照らされ、顔はこちらを向いた。目が合った。大人しい千乃の顔はそこにはなかった。  千乃が黒い手に引きずられていく。引きずられながら千乃は俺を見ていた。じっ、と恨めしそうに俺の黒目の真ん中を見ていた。 「子供を生んで死にたかったのに」  言葉を残し、千乃は玄関扉の隙間に引きずりこまれていった。  みゃお。足下で猫が寂しそうに鳴いた。
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