After2 服従する男(4)

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After2 服従する男(4)

 星を見てあの日のタエを思い出して、駆けだしたくなる衝動を覚えるなんて、まるで自分らしくない。 『無感動。無表情。何考えているか分からない奴』  そう自分を評したタエはきっとこんな自分を知らない。  だが自分だって知らなかった。  あの日、もう一泊し、水谷はタエの高校の舞台を通しで観た。  その時の強烈な感動は、きっと一生忘れない。 『楽しいって気持ちはきっと伝わっているでしょ?』 『君はただ心がはずむことをすればいいんだよ』 『そうしたらわたしたち友達になれるよね』  舞台の最後は地球人と火星人、総勢十数名での一糸乱れぬダンスだった。激しいダンスチューンに合わせて、誰もがダンスによって心を一つにし、お互いを理解し合うことに成功してフィナーレとなった。  その舞台を観ている間、水谷は自分がずっと疎外感を覚えて生きてきたことを自覚した。恵まれすぎていることで他者と異なる自分を幸せだとも不幸だとも判断できず……思考を停止し流されて生きることでごまかしてきた自分に気づいてしまった。  だがもしも自分もあの火星人のようにあの場に入って行けたなら。  舞台を通じて他人と心を通わせることができるようになるのなら。  いや、違う。  嫉妬や羨望だけではない。  その時の水谷は純粋に舞台を楽しんでいた。  だから楽しいと思えることを教えてくれたタエに感謝し、ともに同じ舞台に立ちたいと願ったのだった。  これからずっと先の未来、トシの魂を抱いた青年がタエを探すために孤独な探索の道を歩む。だがそれは水谷も同じだった。タエを探しあて、同じ大学へと進むために親と断絶までした水谷も比較にならない労苦を経験している。髪を金に近い茶に染めることで過去の自分と決別し、今はバイトを掛け持ちしながら日々切り詰めた生活を送っている。  階段を上り終え、水谷は深いため息をついた。  あとは十歩も歩かずそこにタエへと続くドアがある。  それを視界に入れたことでふいに気づいた。 (そうだ、どうして俺は今まで何もしようとしなかったんだ……?)  こうして同じ大学、同じ演劇部に所属し。  二人でヒーローとヒロインを幾度も演じ。  幾度も顔を合わせ、見つめ合い、触れ合い、会話し。  少し距離を縮めるだけでキスできる距離にいて。  いつでも『好きだ』と伝えられる位置にいて。  強引にでもタエのすべてを奪ってしまえた状況は一度や二度ではない。  なのにずっとタエの私生活に踏み込もうとすらしてこなかった。  この一年半、そばにいることに満足して何もしてこなかった――。  板を軋ませながら歩む水谷の心にはもう迷いはなかった。  これまで近すぎて何もできずにいた自分と決別したい。  人の顔色を窺って生きる昔の自分とはさよならしたい。  タエに初めて会った日から水谷が望んでいたことはただ一つ、『心が欲することをしたい』ということで、それは初めての恋のことでもあった。  ドアの前に立つやノックをし声を掛けていた。 「先輩、いますか?」  気が急いている自覚はある。  だが会いたい。  早く会いたい。  会ってその体を抱きしめたい。  ヒーローではなく生身の自分としてタエに恋心を伝えたい。  もう何が起こってもいい。  たとえ今あの男がドアの向こうから現れても、胸倉をつかまれても、銀に光る日本刀を向けられても、斬られても――もうどうだっていい。とにかく早くこの気持ちをタエにぶつけたい。  もう一度ノックする。 「先輩、俺です。水谷です」  ノックしながらノブに手をかけ回していた。  それはすんなりと回り、ドアは小さな音を鳴らしながら開いた。  不用心さにあきれながらも、それもまたタエらしいと水谷は思った。この人はいつもそうだ。演劇のこと、そして自分のことしか頭にない。だがそれ以外の他人、事柄を粗雑に扱うというわけでもない。自分に無関係だと、不要だと結論付けるのがうまいだけだ。  これまでのタエにとって恋とは無用の長物だった。そして水谷はヒーローを演じられる貴重な後輩でしかなかった。  だがもうそれも終わりだ。  くたびれたスニーカーを脱ぎ捨て、水谷は室内に押し入った。奥の部屋、ベッドに人影がある。それでも水谷は躊躇することはなかった。  ベッドに眠っているのは一人だった。  うつ伏せているのはタエだった。  カーテンを開け放したままの窓から差し込むわずかな光が、タエの頬に残る涙の痕を見せつけるかのように反射した。  室内には他に誰もいなかった。  ちゃぶ台の上に、床に、ビールの空き缶が無数に散らばっている。確かにタエは酒豪だが、これだけ飲めばしらふでいられるわけがない。  トシと呼ばれた男はもういないのだと、ほぼ確信していた事実を突きつけられて。  すうっと、水谷の激情が収まっていった。  これほどまでに傷ついたタエを見たことはない。自分に置き換えてみればタエの心の痛みは水谷には手に取るように分かった。 「……先輩」  タエに近づこうとして、手を伸ばそうとして。  水谷はぐっと息をのんでやめた。  目の前で悲しみに浸り眠りにつくのは恋しい人で、水谷がずっとずっと欲しかった人だ。  だから水谷はとうとうここへとやってきた。  たとえタエを傷つけてでも、本意ではなくても想いを告げたいという衝動でここまでやってきたのだ。  だがやはりこうして頬を涙で濡らすタエを見れば、水谷は自分の想いなどどうでもよくなってしまうのだった。  水谷は金子に言った。  運命の恋とは服従だと。  自分ではどうしようもない恋、抗うことのできない力が作用する恋。それこそが運命の恋なのだ。  何をしてでも成就させたいと願わざるをえない尊い想い。  だが人の力では動かしようのない状況、未来。  大切だからこそ動けなくなる恋。  傷一つつけたくなくて、この恋に、タエに関わることすべてに、水谷は逆らうことすらできなくなってしまった。  運命の恋とは恐ろしい。  だからこそ服従するしかない――。  口紅をちゃぶ台の上に置き、水谷は静かに部屋を出ていった。  **  のちに水谷は悟る。  この夜の衝動も高揚も、すべては定められていたのだと。  なぜなら、この夜タエのアパートに行かなければ、水谷は失意に泣き濡れるタエの姿など一生見ることはなかったからだ。  そしたらタエは翌日からは元の豪快で粗野な女に戻っていたから、水谷は単純に安堵できたはずだった。もうあの男との恋は綺麗さっぱり忘れたのだろう、と。であればきっと、恋を覚えたタエに焦り、自分という存在を意識させるべく動き始めたことだろう。そして冬が来るまでには何らかの形で恋心をさらけ出していたのではないだろうか。  だがこの一夜のせいで水谷はまたも動けなくなってしまった。  次に動く勇気を持てたのは、それから二年後、タエが上京して一年が経とうとする冬のことだった。  それでも最後まで水谷は恋を勝ち得ることはなかった。  そうして水谷は運命の恋を成就させることに失敗した。  だが水谷の発言が正しいのなら、今でも水谷は幸福なのだろう。  心から愛しいとおもえる人がいること、その人と大切な舞台を共有できること。  これ以上に幸せなことがあるだろうか。  そして二人は舞台の上では何者にもなれる。  幾多の恋も共有できる。  今もそうだ。 「ねえ、わたしと一緒に死んでよ」  そう言って腕に触れてきたタエの手を、水谷は思いを込めて握り返してやれる。 「ああ。お前がそう望むなら」  役を通してであっても、今この時、水谷とタエは相思相愛の恋人だった。  お互いのためであれば共に死ねると覚悟できるほどの恋に溺れ、情欲を込めて見つめ合える。  触れ合い、狂おしいほどに強く抱きしめ合える。  そして――。 「俺のすべてはお前のものだ」  水谷の台詞に、タエが花咲くように微笑んだ。
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