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After2 服従する男(1)
「……についてどうお考えですか?」
少し気を抜いていたのだろう、水谷はその女性記者が何を言ったか聞き漏らしてしまった。
「すみません。もう一度お願いします」
女性記者は嫌な顔をすることなく同じ問いを繰り返した。
「水谷さんは恋についてどうお考えですか?」
「恋?」
「ええ。先日の映画出演をきっかけに人気急上昇中の水谷さんですから、恋についてどうお考えか、多くのファンが興味あると思うんです」
「そんなもの……ですか」
「はい!」
手に持つペンを握りしめ、女性記者が力強くうなずいた。
「水谷さんは恋は必要なタイプですか?」
少しの間をおいて水谷は「そうですね」と答えた。
「なるほど。では最近は恋はされていますか?」
「恋はいつでもしていますよ。今もしています」
あっさりと認めた若い役者に、女性記者が驚きの表情を見せた。だが彼女の本領は記者であるから、このネタを確実にものにせんと鼻息荒く追及を始めた。
「それは恋人がいるということでしょうか」
「いえ。恋人はいません」
「ということは片想い?」
「ええ」
さらっと、まるでなんて事のないように水谷は語る。女性記者はどこまでこの問いを続けていいか悩みつつ、問えるぎりぎりのラインで読者が最も気になることを尋ねた。
「その水谷さんの好きな方というのは、どんな方でしょうか」
む、と軽く唇を結んだ水谷に、女性記者は慌てて言った。
「いえその。お話できるところだけでいいんです。水谷さんみたいな素敵な方が片想いする相手ってどんな方なんだろうって、たぶん女性ファンだけではなく男性ファンも気になると思うんですよね」
男性ファンも、というところで水谷が思慮深げな顔つきになった。それに女性記者はほっとした。水谷はしばらく目線を下にやっていたが、やがて組んでいた膝を崩し女性記者を見つめた。その目には様々な色、様々な感情が見えた。無表情なくせに水谷の双眸は常に多弁だった。それこそが水谷の役者としての宝でもあった。だから女性記者も水谷の目線一つでついぽうっとなってしまった。
水谷は人差し指を立てると、そっと自分の唇に当てた。
「それは秘密です」
「……え?」
ちょっと茶目っ気のある笑みを浮かべ、水谷は柔らかくその目を細めた。
*
取材を終えた水谷が劇団員の元に戻ると、いち早く水谷の存在に気づいたタエが駆け寄ってきた。
「どうだった? 初の単独取材は」
「別にどうってことないです」
「そんなこと言って。ほんとは嬉しかったくせにさ」
肘でぐいぐいと水谷の腹をつつくタエの表情は、一後輩をからかうだけのものだ。
水谷は分かりやすく大きなため息をついてみせた。
「それよりこれから第三幕の心中するシーンの練習をしませんか。一緒に死んでって言うタエさんの演技、なんかいまいちなんですよね」
「はあ? いまいちだって?」
ぎりっとにらみつけてくるタエは、今も心底演じることを愛している。
それが分かっているから水谷も演技で手を抜くことは決してしない。
たとえ相手が長年恋する唯一の女性だとしても、だ。
「一緒に死んでしまいたいほどに俺のことを愛しているとは到底思えないんですよ、どうしても。タエさん演じる佳代子に『一緒に死んでよ』って言われて、俺が思わず承諾するシーンのはずなんですけど……なんか素直にうなずけないっていうか」
言葉を重ねていくにしたがってタエの表情はどんどん険しくなっていった。
「タエさん、俺が一緒に死にたくなるような迫り方をしてくれませんか」
とどめのように水谷が言うと、タエがすかさず大声をあげた。
「分かった! 水谷が一緒に死にたくなるような演技してみせるから!」
「……本当にできるんですか?」
腕を組み見下ろすと、タエは強気な表情で見上げてきた。
「できる! 絶対にできる!」
そして何のてらいもなく言った。
「だからできるようになるまでわたしの稽古に付き合え!」
なんとも偉そうだ。演技ができない責任は自分にあるのに、タエはそれを超えて当然のごとく稽古に付き合うことを要求してきた。だがそれを聞いた水谷は内心愉快に思った。
「いいですよ。タエさんが素晴らしい演技ができるまで付き合ってあげます」
「よおし。それじゃ、さっそくやるぞ!」
猛然と台本を握りしめたタエはすっかり問題のシーンに思いを寄せている。
いつまでも付き合いますよ。
そう心の中で呟きながら、水谷は十年以上前の大学時代のことを思い出していった。
***
その年のとある地区の演劇コンクールにおいて、R大学にある三つの演劇部のうちもっとも弱小の部が初の快挙を遂げた。入賞したのだ。しかも銀賞と観客賞、ダブル受賞で。
そのアナウンスがホールに響いた瞬間、弱小部員の彼らの興奮は最高潮に達した。お揃いのTシャツ、縦に大きく達筆で『演劇命』と書かれた者同士、手を取り合って、または抱き合って喜んだ。感動屋の幾人かは人目もはばからず涙を流し、その親分ともいえる部長の金子は感極まって号泣する有様だった。水谷ですらアナウンスを聞いた瞬間、湧き上がる歓喜に興奮した。
「先輩っ……!」
紅潮させた頬で水谷は隣に座るタエの方を向き――だが一瞬にして言葉を失ってしまった。
タエは身じろぎもせずにうつむいていた。ヒロインを演じたのであるから、この集団の中でもっとも歓喜してしかるべきなのに、だ。
「……先輩」
だが水谷にはタエの気持ちが痛いほどに分かった。
一週間前、タエはヒロインの座を奪い返すために部員全員の前でテストに臨んだ。その時の演技は場に居合わせた全員の言葉を失わせた。月並みな言い方をすれば、タエは神がかった完璧な演技をしてみせたのだった。
それまでの四日間、タエは部室に来ていなかった。
なのにその四日間で、タエは演じることのすべてを、ヒロインを理解してきたのだった。
その日、相手役を演じた水谷ですら、タエの迫真の演技に引きずられるかのように、演じるという行為に生まれて初めて没入した。自分が自分ではなくなり、まるで本物の土方歳三になったかのように。そう思わせてくれたのは間違いなくタエの演技によるものだった。
そして。
今日はこれまでにない史上最高の演技、最高の舞台となった。
だが演じ終わった直後、タエは着替えることもせず、物陰で一人放心し座りこんでいた。それを見つけた水谷は声をかけることもできず、立ち去ることもできなかった。
タエの演技は劇的に変化した。
水谷が、部員が望んだ以上に。
だがそれと引き換えにタエが失ったものは……。
ずっとそばにいるからこそ想像がついてしまい、水谷は声をかけることができなかった。
今もタエは険しい表情で床の一点を見つめている。
「ほら、タエと水谷も前に出て賞状もらってきなよ」
後ろから衣装担当の四年生が満面の笑みで声を掛けてきた。
「……はい。じゃあ俺が。あの、本庄先輩は気分悪そうなのでそのままで」
「え? そうなの? 大丈夫?」
その部員は水谷のいた席に移ってタエの顔を覗き込んだ。それに顔を上げ「大丈夫です」とタエが薄く笑ってみせた。やはり顔色はよくなかった。気になりつつも、水谷は金子とともに檀上へと向かったのであった。
*
その夜、演劇部員一同は大衆居酒屋に集合した。
「ここは俺のおごりだ!」
大ジョッキを持った金子がそう豪語するや、ほかの部員たちもジョッキやグラスを持ち上げて「カンパーイ!」と高らかな音を鳴らした。隅に座る水谷はビールを一口飲むと、目の前にあった枝豆を二つつまんだ。
その間に中央に陣取る金子は大ジョッキをあっという間に飲み干した。「お替わりくれー」と空のジョッキを上げる様はただの飲ん兵衛だ。恋愛ストーリーが好きで乙女ゲームが好きな金子も、こういう場所にくればただのむさくるしい男子学生にしか見えない。
このアットホームな部では週に一回はこうして全員で外で飲む。だが最近はコンクール前ということもあり控えていた。だから久しぶりのこうした場は、初の受賞を成し遂げた夜ということもあって、全員をいつも以上に興奮させ、いつも以上に酒を飲ませた。
それに暑い夜のビールは特にうまい。
近くに座る者同士でがやがやと雑談が始まった。
「今日は最高だな!」
「金賞のK大の舞台はさすがにすごかったよなあ」
「ああ。悔しいがそうだな」
「だが観客は俺たちを選んだ!」
「そうだ! 俺たちの舞台は最高だった!」
ガン、とジョッキをぶつけ合う。
「来年こそは金賞をとって全国に行っちゃう?」
「お、いいねえ。な、真人?」
突然話を振られ、水谷はジョッキを口に運んでごまかした。
まだ重いジョッキを机に置き「ごめん、なんだって?」と尋ねると、同級生の男は不機嫌になることもなく同じ言葉を繰り返した。
「だからさ、来年は金賞とって全国って話。もうタエさんも部長もいないけどさ、お前がいれば大丈夫だよな」
早くも酒が回っているようで、同級生の目元は赤くなっている。
水谷はそれに笑ってみせた。
「そうだな。来年こそは全国行こうな」
それを聞いた同級生はジョッキを持ってやにわに立ち上がった。
「えー、皆さん。聴いてくださーい!」
突然の大声に全員が注目した。
この男も役者担当なので腹から声を出せば相当なものなのだ。
「お知らせがあります。なんと! ここにいる真人くんが来年はみんなを全国に連れていってくれるそうです!」
わあっと歓声があがった。
「いいぞいいぞー」
「水谷くん、あたしを全国に連れてってー」
「なんだよお前、女みたいな気色悪い言い方するな」
「よし、乾杯だ!」
一人二人と、結局全員が水谷のところにグラスを合わせにやってきた。そのたびにカチンとジョッキを鳴らして水谷はビールを流し込んでいった。
やはり夏のビールは最高だ。苦みがおいしいなんて子供時代は知らなかった。ほんのちょっと前まではコーラのほうが好きだったのに不思議なものだ。
今夜、実は水谷は酒を飲む気分ではなかった。
タエのことが気になって仕方がないのだ。
舞台を終え一人物陰で座り込んでいた姿、受賞を知った直後に見せた険しい顔……。どれも普段のタエではなかった。
今夜はこの場にタエは来ていない。いつもなら誰よりも先にやってきて「祝杯だー!」とわめき、「お先にー」と全員が集まるまでにかるく三杯は飲んでいるというのに。
だがその理由も水谷にはわかりすぎるほどに分かっている。
二時間の飲み放題コースを利用した宴会がお開きになるまで、開かぬ口を弁護するかのように、水谷はいつもよりも多くのジョッキを空けた。立ち上がった瞬間少しふらついた自分に水谷は嫌悪を抱いた。
店の外に出ると、「じゃあ次の店に行くぞー」と誰かが声をあげた。それに異議を唱える者などいるわけがない。先導する者について一人二人と店から出、夜道を行列を組んでぞろぞろと歩きだした。
水谷はその最後方をぼんやりとした面持ちでついていった。たとえ舞台でヒーローを演じても、受賞しても、それは水谷らしい行動だった。いつも無表情、無感情、何考えているか分からない奴。以前水谷のことをそう評したタエは別にきついことを言ったわけではないのだ。
部員たちも皆そういう水谷のことを理解しているから、無理して盛り上げることもしないこのヒーローを物足りないと思うこともない。そういうのは得意な人間がやればいいのだ。
ゆっくりと歩く水谷はゆるゆると集団から離れていった。しかし水谷はそれに焦ることもせず、逆により速度を落としていった。行先は予測がついている。行きつけのカラオケ店に決まっている。
その水谷の隣に人が立つ気配がした。
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