After1 巡る男の魂(4)

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After1 巡る男の魂(4)

 大学二年の夏。  起き抜けのむわっとした暑さに、男はベッドサイドからエアコンのリモコンを取りボタンを押した。吹き始めた冷風を感じながら、上半身だけを起こしてタブレットを起動する。ここまでの行動はすべて無意識だ。舞台の情報を起き抜けに探すのは男の日課となっていた。 「あれ、こんな舞台があるのか」  それなりに演劇については詳しくなったと自負していた男にとって、その情報は目新しかった。都内、聞いたことのない劇団名。タイトルは『新訳・嵐が丘』。心が騒ぎ、タブレット上を動く指が少し震えた。だが役者名には今回もタエの名はなかった。  それでも舞台のチケットを押さえる。舞台では必ず客席にも注意している。いつどこにタエが現れるかは分からないからだ。それにこうして出かけることで平常心を保つ効果もあった。何かしら行動を起こしていないと不安ばかりが募るのだ。  そろそろ興信所を使ったほうがいいのかもしれない。本庄タエという名と容姿と年齢と、役者をやっているはずだという情報と。舞台を見て回るよりもそのほうが早く確実で安いかもしれない。だが男はそれをしたくはなかった。  タエは必ず役者になっている。  それを信じる。  タエも言っていたではないか。自分を信じて、と。そして自分たちは同じ存在なのだ、と。お互いがお互いを信じることができなければ、この愛する気持ちを裏切ることになる。そんなふうに男は思い込んでいた。  *  当日。  ずっと続いていた季節外れの長雨はやみ、一転して盛夏らしい昼下がり。  男はいつものように黒のシャツと黒のジーンズを着込んで家を出た。ドアを開けた瞬間、頭上で輝く太陽のまぶしさに目を細めた。地下鉄メトロの駅まで歩くだけで汗だくになってしまった。  今日の劇場は何度か行ったことがある。小さな劇団がよく使うところだ。それでも今日チケット販売サイトをチェックしてみれば、全日のチケットが完売していたから、きっと実力のある劇団なのだろう。  念のためと、男は今日の初日と千秋楽、二日分のチケットを購入していた。出演する役者が代わる場合があるし、客席にタエが訪れる可能性が高いのもこの二日だからだ。  劇場につき、入り口でスタッフにスマートフォンで電子チケットを見せる。引き換えにチラシをもらう。当然すぐに目を通す。上から下まで。表から裏まで。予想通りというべきか、そのどこにも求める人の情報は載っていなかった。  だが。 「……水谷真人?」  配役リストの上から三番目。  エドガー・リントン。  水谷真人。  ポケットからもう一度スマホを取り出し劇団のサイトにアクセスすると、そこには今日の舞台の最新情報が並んでいた。まだ作られたばかりの簡素なそこには役者名が記述されているだけだが、エドガーを演じる役者名には確かに水谷真人と書かれていた。  チケットを予約した日にはこの名はなかった。あったらまず間違いなく気がついていた。気づかないわけがない。なぜなら水谷真人とは、タエと共に役者をしていた男だからだ。  そしてまず間違いなく、タエに惚れていた男だからだ。  急激に男の体温が上昇していった。頬がほてり、エアコンの空調が効きすぎるくらいのその場で異様なほどに汗が噴き出した。のどが渇き、頭がくらりとした。 (ようやく……) (ようやくタエさんに繋がるものを見つけられた……)  感動と興奮と。  それから恐怖と。  相反する感情が男の内部に生じ荒れ狂う。  ふらふらと、男は指定された席に座った。  後方のもっとも隅、劇場も客席も見渡すことのできる定位置に腰を下ろすや、男は天を仰いで目をつむった。 (タエさん……。もう少しで僕はあなたに会えるよ……)  この舞台を観終えたら、急いで水谷のもとへ行かなくてはいけない。 (タエさんはきっと今も変わらないはずだ) (きっと今でも役者をしているはずだ) (きっと……きっと今でも僕のことを想ってくれているはずだ) (そうだよね……?)  男の胸の内に、ふいに迷いが生じた。  水谷に会ったら何を言われるか定かではない。  だが何を言われようとすべてを受け入れなくてはいけない。  待っているのは天国か地獄か。  だが行かなくてはいけない。  行かねばタエと再会することはできない。  これほどの迷いは前世を思い出して以来初めてのことだった。 (タエさんのことを僕は信じる。タエさんが僕のことを信じてくれていたように……)  そうは思いつつも、男の弱い部分は頼りなく揺れていた。暴風雨の前に立つ柳の一枝のように、幹に取りすがりつつもゆらゆらと……。  客席が埋まりきるまで、男はじっと己の内の苦悩と戦い続けた。  やがて照明が落とされ、注意事項を告げるアナウンスが入り、ひそやかに幕が上がった。
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