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Day1, 3 暑いせいだ、きっと
ユイが帰宅し、狭いアパートには元いた二人だけが残った。
「それじゃ、さっそく稽古するぞー!」
友人の想いを無下にはしたくない。
それにここに本物の土方歳三がいるのは、きっと天からの授かりものなのだろう。神はわたしを見放してはいない。これは試練だ。試練というものは乗り越えるためにあるはずで、だからわたしは舞台テストに合格し、役者道をまっしぐらに進まなくてはならないのだ。
鼻息荒く立ち上がったわたしを、床に座るトシがぼんやりと見上げ、言った。
「で、何すればいいの?」
「何する……何からすればいいんだろうね」
頭をかいてへらっと笑う。
束の間、二人の間に沈黙がおりた。
無言で冷たい目で見られると、トシがまごうことなき鬼の副長に思えた。
まずい、そう思いかばんをあさる。
中から台本を取り出しちゃぶ台の上に置く。
「これに台詞が書いてあるからさ。まずは一緒に台詞合わせしてくれる?」
「いいよ」
ほっとし、ぱらぱらとページをめくる。
「じゃあさ、まずはここからやっていい?」
指で示したところは冒頭の出会いの場面だ。
だがトシの顔が曇った。
「どうしたの?」
別に恥ずかしくもなんともない普通のシーンなのだが。
「……読めない」
「は?」
「なんて書いてあるか読めない」
「……あ。そうか。そうだよね」
トシの時代の本とこのワードで作った台本とでは、フォントというのか、文字の造形一つとっても全然違うに決まっている。読めないというよりは読みにくいというのが正しいのだろう。
「じゃあこのノートあげるから、わたしが言うとおりに自分で台詞を書いてくれる?」
百均で購入した落書き用のピンクのノートを渡し、その上にフリクションペンを置いた。
「これは何?」
「筆みたいなものだよ。こうしてここをノックするとね」
ノックという言葉を知るわけもないが、要はボディランゲージ、百聞は一見にしかずだ。かちっと本体の一部を押すとペン先がにゅっと出てくる。それにトシが背を逸らしてのけぞった。
「うわっ。びっくりした」
「でね、こうやって書いて」
ノートをめくり、ピンクの紙面の上にくるくるとブラックのインクを走らせる。
「こうしてここでこすると」
ペン先と逆側についているゴムの部分でこする。
「……うわあ」
ぱっとトシの顔が輝いた。
これではまるで、大きなカブトムシを発見した子供だ。
「うわあ、うわあ。消えたよ? 消えたよ?」
「うん、まあ。消えたよね」
若干引き気味のわたしとは対照的にトシの興奮は冷めやらない。
「すごいねこれ。ね、僕もやってみていい?」
「いいよ。はい」
手渡すと、トシは夢中になって絵を描き出した。絵と言ってもわたしがさっき書いた丸みたいなのを適当にだが。書いては「すごい」と称賛し、それを消しては「ほわあ」と感嘆し。あまりに夢中になるものだから、わたしはあっけにとられ、やがて苦笑していた。
「……可愛いじゃん」
「え? なに?」
きょとんとした顔も可愛い。
「んーん。なんでもない」
「ねえ、もっとやってみていい?」
「いいよ。いっぱいあるから好きに書きなよ」
「本当?」
トシがくしゃっと笑った。
「タエさん、ありがとう」
天真爛漫、天使の笑顔。
いろんなたとえが頭の中に浮かんだ。
それほどまでにトシの笑顔には破壊力があった。
一気に顔に血が昇り、わたしは水を飲みに台所に行くふりをしてあわててそばを離れた。
「まずいまずい、それはまずい」
そればかりをつぶやきながら、熱い頬を手であおぐ。
「これはきっと夏だからだ。いつも一人でいるところに二人いるもんだから暑いんだ。よし、エアコンを入れよう」
結論づけ、めったに入れないエアコンのスイッチを入れると、突然吹いた冷風に、落書きを再開していたトシが面白いぐらいにびくっと体を震わせた。
「なになに? 何が起こったの?」
きょろきょろとあたりを見回す。
「ねえタエさん、今度はいったい何をしたの? 冷たい風がびゅーびゅー吹いているよ」
真剣に訴えられ、わたしはこの場で腹を抱えて笑うことを選択した。
頬の赤味はきっと大爆笑しているせいにできる。
*
ノートに台詞をすべて書いてもらうだけで午前中を使い果たした。もちろん、わたしにはトシが書いたものの九割がたは読めない。流れるようにしたためられた細い文字は現代人にとっては達筆すぎた。いや、もしかしたらトシが下手すぎるのかもしれないが、わたしには判断がつかない。
素麺を茹でてさっと腹ごしらえをした後、わたしはトシを連れて近所の浜へと移動することにした。アパートだと舞台用の大きな声を出せないし動けるスペースがない。だから一人で稽古をしたくなった時、わたしはいつもそこに行く。
「これかぶりなよ」
無理やり野球帽をかぶせると、トシはくすぐったそうに身をよじった。わたしも別のデザインの野球帽を深くかぶる。わたしがタオルやら水筒やらを詰めた鞄を抱えた横で、トシは当然のように刀一本を手に持った。
ドアを開け、一歩日の下に出ただけで、正直な体はひゃっと悲鳴をあげた。青く透き通る空に浮かぶ太陽は、地上のいる者すべてを射殺さんばかりに照りつけている。とにかく暑い。ものの数分で汗がにじみ出てきた。
このアパートを出てすぐのところにある角を曲がれば、そこには昔懐かしい風景が広がっている。耕作を放棄された荒地の間に続く道は、赤茶色の土がむき出しになっている。昔からの住人のものと思わしき古家が付近に数軒建っているが、ここを通る際に人の姿を見たことは一度もない。だからだろうか、この道を通るたびに地元でもないのにノスタルジックな気持ちになる。どこか帰るべきところに向かっているような、そんな郷愁を感じる。
無人の道をサンダルでぺたぺたと歩いていく。
トシはわたしのすぐ後ろをおとなしくついてくる。わたしのおさがり、百均のサンダルに窮屈そうに足を突っ込んで。ユイに靴を買ってきてもらうのを忘れていた。
初めての外出だからだろう、たまにトシの足が遅くなる。それに気づいて振り向くたびに、トシはきょどきょどと辺りを見回している。その様子だけを見ればただの不審者だ。全身黒づくめというのも悪い方向に相乗効果を生んでいる。これで頭頂部に髷があったらただの奇人もとい変人だろう。
蝉の泣き声だけがどこからともなく聞こえる。
真っ直ぐ進んだ道はやがて下り坂になる。サンダルの滑らかな表面で滑らないように気をつけつつ下りると、わたしたちは猫の額ほどの浜に出た。それでも、その先に広がる海はまごうことなき大海だ。水平線はどこまでも遠い。もくもくと立ち昇るあの入道雲もきっと異国で生まれたに違いない。
無人の浜は左右に百メートルもない。その両端はごつい大岩で囲まれている。そのわずかな領域には流木や貝殻が大量に打ち上げられている。それでも薄茶色の砂のあるところを選んで、転ばないように気をつけながら、わたしたちは唯一の木陰の下へと移動した。下ってきた坂の脇に斜めに生えている一本の松の木が、ここではうまい具合に日傘の役割を果たしてくれるのだ。ここまで来ると蝉の泣き声は聞こえなくなる。すぐ目の前、寄せては返す波の音しか聞こえない。
「いいところだね、ここ」
トシは目を細めて海を眺めている。
木陰に覆われているが表情は心なしか明るかった。
「そういえば、トシは海は怖くないの?」
「……僕、そんなに世間知らずに見える?」
「いや、そうじゃなくて。海見たことあったんだ」
「それくらいあるよ。行商であっちこっち歩いてるんだよ?」
「そういえばそう言ってたね」
土方家特製の薬を売り歩きつつ、ついでに各地で武者修行をしていると、そうトシは話してくれていた。薬を入れた籠とともに木刀や竹刀を背負って見る海とはどんなものなのだろうか、ふとそう思った。今、トシはわたしと二人きりでここにいる。わたしなんかと一緒に見る海は、トシにとってどんなものなのだろうか。
きらきらと輝く水面は離れていても直視できないほどに眩しい。
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