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【87】
予定通りの時刻、指定された面会室に入った僕の目の前に、奇跡が座っていた。彼女は僕を見るなり立ち上がり、ゆっくりと、そして深く頭を下げた。僕も同様に頭を垂れたが、面会室に入る直前に手錠を外された所為で、目に入った手首に跡が残っていやしないかと咄嗟に後ろへ両手を回し、その勢いに僕の足はよろめいた。
「あ」
と言った彼女の声に僕は震え、しばらくの間は顔を上げることさえ出来なかった。面会時間は十五分と決まっている。しかし僕は下を向いたまま着席し、
「顔を、もっとよく見せてください」
と言われるまで俯いていた。
文乃さんは泣いていた。僕も泣いていた。しかし僕の涙は、悲しい意味ではなかった。
「お久しぶりです。新開さん」
そう言われ、僕は嗚咽を押し殺すのに必死だった。僕が泣いた所で誰も笑いはしないし、興味だってないだろう。それでも僕は、文乃さんの前で泣いてはいけないと、そう思ったのだ。
僕は、文乃さんと再会するのは十二年振りだと思っている。彼女の魂が人蔵チエちゃんの身体に宿り、二年前に僕たちは再会した。しかしその再会の形はやはり歪で、心の底から喜ぶことは出来なかった。今僕の目の前に座っているのは、まだ大学生だった頃に出会った、あの頃の文乃さんだった。髪が少しだけ伸びている以外は、何一つ変わっていない。当時二十五歳だった文乃さんを、僕はとっくに追い越してしまっていた。
「やっぱり、綺麗だなぁ」
と僕は言った。
文乃さんははっと息を呑み、
「声が出てます」
と小声で返した。周りに聞こえたらまずいでしょ、気付いてないの。そういう意味合いの、お道化た口調だった。僕は嬉しくなって、
「すみません、つい」
と素直に謝った。
「まさか、戻って来れた途端、このようなことなるなんて」
溜息を零し、文乃さんはしみじみとそう嘆いた。
「あはは……面目ない」
文乃さんが自分の身体を取り戻したのは、僕が収容された後になってからだった。あの夜、B班である三神さんと一休女史の前に現れた文乃さんの肉体は、三神さんと意見を異にした一休女史が戦線離脱し、三神さん自身もチエちゃんのいる隠れ家へと移動したため、その後方知れずとなっていた。三神さんの算段では、逃げずに待っていれば自ずとチエちゃんの前に現れる、とのことだった。実際その通りになったのだが、今度は僕が姿を消してしまったというわけだ。
文乃さんの肉体と魂は、十年振りに向かい合う事が出来た。六花さん立ち会いのもと、ぐずぐずに崩れて朧神のように変貌していた身体は修復され、文乃さんの魂はあるべき場所へと還った。物心ついた時から同じ時間を共に過ごしていたチエちゃんは、寂しいと言って泣いたそうだ。
「もう、皆には会われましたか?」
と僕は聞いた。魂だけの姿となって僕たちの前に現れた二年前を勘定に入れなければ、文乃さんは十二年振りにこの世へ戻って来たのだ。友達に会う、と言っても簡単は話ではないだろう。しかし、
「会いました」
と文乃さんは嬉しそうに微笑んだ。「三神さんに、六花さんに、めいちゃんに、まぼちゃん。チエちゃんの中から見ていた彼らの姿はやはりどこか朧気で現実味が薄く、遠い存在でした。だけど、ようやく自分の手で触れることが出来ました。感無量です」
「それは良かった」
「希璃さんにも、お会いしました」
「……ああ、はい」
「ニ、三分ずっと抱き合って泣きました」
「ふふふ」
「笑い事ではありません」
「……」
「本当に素晴らしい、素敵な方だと思います。初めて出会った時から変わらずに、ずっと」
「はい。僕もそう思います」
「あと、お嬢さん、成留ちゃんにも」
「そうですか!」
「少し寂しそうではありましたが、新作の水着を着てクルクル回って見せてくれました」
「あははは」
「そうそう、成留ちゃんと言えば、竜二くん」
「え?」
「竜二くんにも会いました」
「あ……えたんですか? 十二年振りですよね!?」
「はい。だけど彼、私の顔を見るなり『おー、なんだよ、元気そうじゃねえかあ』って。片手上げて、それだけ」
「えええ!」
「まあ、友達ってそういうものなのかもしれません」
「あははは、竜二さんらしいなぁ」
「ええ。そう、その時に新開さんの話になって。『まぁーたアメリカ行きが延びちまってよー』って。『あいつが出てくるまで娘の面倒見なきゃなんねえしなー』って」
「アメリカ行き?」
「彼らはもともと、アメリカ進出を前提にしてバンドを組んだので」
「ああっ。あー……そんな所にまで僕は悪影響を」
「だけどちっとも怒ってなんかいませんでしたよ。むしろ、なんだか張り切ってました」
「ええー……」
「心配していましたよ。彼も。とても」
「……」
「ご不便は、ありませんか」
と、文乃さんは聞いた。この時僕はまだ収容されて日が浅かった為、不便さよりも心細さが勝っていた。不便と言えば全てが不便である。しかしそれは僕が望んだことなのだ。
「大丈夫です」
「……普段はここで、どのように過ごされているんですか?」
「そうですねえ、今回の事件を資料として残す為の記録作業とか、あとはまあ、実験みたいなこととか」
「実験」
「例えば腕に、数本同時に注射針を刺して投薬されたり、あるいは電流を流されたり」
「……え?」
「僕に外的ストレスを与え続けて、内なる暴力性の度合いを測るんですよ。どこまでやればこいつは本性を見せるんだろう、みたいな」
文乃さんの顔が見る間に青くなり、肩口にかかっていた彼女の髪の毛がふわりと浮いた。僕はマズイと感じ、
「すみません噓です」
と正直に詫びた。すると文乃さんは大きく溜息を吐き出し、大粒の涙を震える手の甲で拭った。
「……すみませんでした」
再び謝罪するも、文乃さんは怒った顔で横を向いてしまった。
「先程受付の方に、持参した差し入れをお渡ししておきました」
「……は、はい」
「大したものではありませんが、ぜひ」
「あ、ありがとうございます。ちなみにそれって……?」
「本です」
「……本」
「文芸サークルだった新開さんなら、やはり本が読みたいだろうかと。……別に読まなくてもいいですが」
「よ、読みますよ!」
「では」
文乃さんが立ちあがり、
「あの!」
僕は慌てて呼び止めた。「文乃さん、僕はずっと。……ずっと」
「……」
文乃さんは僕を見ないままだ。彼女の両目からは透明な涙が流れ続けていた。
生きて動く彼女を見れることが、こんなに嬉しいことだとは思わなかった。ずっと諦めていた。もう彼女は戻ってこないのだと、本当はずっと諦めていたのだ。だけど僕は、諦めると言いたくなかったし、信じていると言い続けたかった。坂東さんに何度聞かれても、文乃さんは必ず帰ってきますと当たり前の顔を作って答え続けてきた。しかし本当は、現実を受け入れる事を拒み、信じるという体の良い逃げ道を選ぶことで、自分の犯した罪を見ないようにしていただけだった。僕は、ずっと弱虫のままだった。
「ずっと、あなたに謝らなくてはいけないと思っていました。僕があなたに与えた恐怖、苦痛、奪い取ってしまった気の遠くなるような時間! それは文乃さん、僕が……ッ」
ペギー……
文乃さんは僕に向き直り、突然そう言った。
耳慣れない人の名前、それが名前であることも、初めの内は気がつけなかった。しかしそんな僕にはお構いなしに、文乃さんはしっかりとした声で先を続けた。
「ペギー。かなしい獣たちの話をするんなら、人間以上にかなしい獣は存在はしないと断言しよう。そしてもっとかなしいことに、この世界には人間より邪悪な獣も存在しないのさ。死んでなおこの世に未練を残す悪霊どもだって、この俺たちには遠く及ばないだろうよ。見渡す限り、どこまでいっても酷いもんさ。獣たちはどこにだっている。ああ、愛しいペギー!我が魂の道しるべ!俺たちがいずれこの地上を去る時が来ても、楽園へと誘う鐘の音は聞こえないんだ!俺たちが残した足跡を見れば、汚らわしい血のこびりついた足跡を見れば、どこへも辿り着けない理由がわかるだろう!何故ならここが天国で、何故ならここが地獄だからさ!俺たちはもうずっと以前から、遥か大昔からそこに立っていたんだよ!」
それは詩だった。
文乃さんは昔から詩が大好きだった。
そしてなぜ今この瞬間、彼女がその詩を詠んだのか、僕にはすぐに理解出来た。
この世界は地獄だ。
そこいら中に獣がいる。
東刑事や山形杞紗、人蔵浪江や皆瀬九坊だけではない。
この僕もそうだった。
しかし文乃さんは僕を責めているわけではない。
この世界は僕たちが生まれるずっと前から地獄だったのだ。
この世に人間がいる限り、獣が消え去ることもない。
だけど、例え今いる場所が地獄でも、いつか同じこの場所を、天国に変えられる日が来るかもしれない。
「だけど俺は悲観しない。獣だらけの世界で、君という清廉な魂に出会えたからだ。ただそれだけで俺は前を向ける。この手紙が届くころ、君を悩ませ続けた夜が遥か後ろへ過ぎ去っていることを願ってやまない。邪悪な獣どもを置き去りに、さあコートを着よう、ブーツを履こう、外はまだ寒い」
俯いた僕の魂を導くように、文乃さんは力強い声で語りかける。
「俺は行く。決して誰にも辿り着けない、俺たちだけの地平線にて……いつまでも君を待っている」
『夜から生まれし獣』・了
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