【33】

1/1
266人が本棚に入れています
本棚に追加
/59ページ

【33】

 美晴台の崖団地から行方を眩ませた井垣哉子さんの所在は、すぐに見つける事が出来た。坂東さんの携帯電話に、井垣さんからの着信が入ったのだ。しかし彼は話をすることが出来ない。その為、坂東さんの隣にいた僕が彼の代わりに電話に出た。 「新開です、井垣さんですか?」 「……」  電話の向こうは無言で、僕の問いかけには無反応だった。電話に出たのが坂東さんじゃないせいで怒っているのかとも思われたが、井垣さんとて坂東さんが話せないことは当然知っているはずなのだ。 「……井垣さん?」  しかし彼女は答えず、無音の応答だけが耳内に響いた。  ……ごおー…… 「……?」  一瞬、音が聞こえた気がした。誰かの呼吸音でも話し声でもない、それは低く激しいノイズのような音だった。しかし音量自体はとても小さく、遥か遠くの方で鳴っているように聞こえた。 「井垣さん、聞こえますか? 新開です」  僕の背後に、六花さんとめいちゃんが近づいてきた。  僕たちがこの時いた場所は、オフィス街にある六花さんの喫茶店である。正確には、店の出入り口から出て階段を登り切った先にある、雑居ビルの軒下である。坂東さんとともに、再び井垣さんの捜索へと街へ出るその直前のことだった。  ごおおおおーー…… 「なんの音だ……」  思わず独り言ちた僕の言葉に、めいちゃんが進み出て右手を差し出した。 「坂東さんの携帯です。行方が分からなくなっていた井垣さんから着信が入って、それで」  説明する僕の手から電話をとり、めいちゃんが自分の耳に当てた。その瞬間、 「きゃ!」  と悲鳴を上げてめいちゃんは耳から電話を遠ざけた。落っことしそうになる電話を坂東さんがキャッチし、今度は彼は自分の耳にあてた。しかし彼も僕同様怪訝な顔をするばかりで、悲鳴を上げるほどの音を、または声を、聞き取ることが出来ないでいる様子だった。 「もう一度」  と言って僕が電話を引き受けた。「井垣さん!聞こえますか!今あなたはどこにいるんですか! そこから何が見えますか!」  しかし井垣さんは答えない。相変わらず、ごー、という音が遠くの方で鳴っている。 「井垣さん!あなたはどこにいますか!何が聞こえますか!」  ………かわ。 「ギャッ!」  はっきりと断言できるわけではないが、声のようなものを聞いた瞬間、耳の奥が裂けるか潰れるかした。ドバっと血が溢れ、僕は声を上げて左耳を抑えた。 「どいて!」  六花さんが、坂東さんとめいちゃんを押しのけて僕の顔を両手で挟んだ。 「六花さん」 「新開動かいないで。……まだだよ、まだ攻撃は続いてる」 「ううぅ」 「バンビ、携帯の着信を切って」  六花さんに言われた通り、坂東さんが地面に落ちた携帯電話を拾って通話を終了させた。その時だった。その場にいた人間の中で唯一めいちゃんだけが、女性の悲鳴を聞いたそうだ。おそらくそれは井垣さんの上げた悲鳴だと思われ、声は、なんとめいちゃんが通り魔に襲われた公園の方角から聞こえてきたという。  午前中にカケが入院する病院を訪れていたこともあって、その後坂東さんらと合流して話をし、それから井垣さんの捜索へと腰を上げたのは夕方近くになっていた。夏の時期は陽が長く、当然この時もまだ空は明るかった。しかし僕たちが急いで公園に向かった時には、なぜかその一画の空だけがどんよりとした分厚い雲に覆われ、とても暗かったのを覚えている。  公園が見えた辺りで、先頭を行く坂東さんが走る僕たちの前で両腕を広げて制止した。暗すぎる空模様もそうだし、この時にはすでに僕も気が付いていた。この世ならざる者の気配が、公園の中から漂ってきていた。  周囲を見渡すも、誰一人歩いていなかった。平日のオフィス街、まだ夕方前だというのに、見える範囲に人が歩いていないのだ。僕の視線を追うように、六花さんとめいちゃんもこの異常さに気が付いたようだった。  坂東さんが右手の甲で僕の胸を叩く。  見やると、彼は公園に向けて意識を飛ばしていた。距離的にはまだ五十メートル程離れている。しかし坂東さんには、今いる大通り沿いの側道からでも、公園内の空間を立体的に把握する事が可能性である。音の反響によって周囲を知覚するエコーロケーションに近い能力だと言われている。実際には坂東さんが飛ばしているのは音波ではなく、霊力の波である。 「……」  坂東さんが、右手のひとさし指だけを立てた。  つまり、公園内には一人しか人間がいないのだ。 「……なにも、聞こえません」  とめいちゃんが囁いた。  坂東さんが首を横に振る。 「めい、感度を上げすぎない方がいい。新開と同じ目にあうかもしれないよ」  六花さんの忠告に、僕も頷いて同意した。あれが何者かの攻撃なのか、単なる霊障なのかは分からない。しかし耳の良すぎるめいちゃんには、中耳を抉るようなあの力は耐えられないだろう。  坂東さんが自分と僕を指さし、二本の指で公園を指し示した。そして今度は六花さんとめいちゃんを指さし、続いて地面に指の先を向けた。 『俺と新開で行く。六花姉さんとめいはここにいろ』  そう意味だった。  僕と坂東さんは歩いて公園に向かった。十字路の交差点に面した大きな公園である。空から見下ろした場合、公園の場所は四ツ辻の左下。出入り口は上辺と右辺の真ん中に開いている。僕たちが歩いて向かう大通りの側道はその右辺に沿っており、このまま歩いて行けば園内が少しずつ視界に入って来る。  公園まで三十メートルの距離まで近づいた時、上空を覆う黒い雲が弥が上にも気になった。 「気温まで下がってますね」  と僕が言うと、坂東さんは頷いてチラリと背後を振り返った。六花さんとめいちゃんが、心配そうな顔で僕たちを見ていた。 「……ああッ」  公園の半分程が視界に入った時、丁度敷地の真ん中辺りでぽつんと立っている人影が見えた。  静かに、気を付けの姿勢で立っている。  女性だった。  見つけた瞬間、坂東さんが猛ダッシュで走り出した。  僕もその後を追う。  井垣哉子さんだった。  井垣さんは公園の真ん中で一人、何もせずにただ真っすぐに立っていた。  口元には笑みが浮かんでいる。  大きく口角を上げて……いや、違う。  違う、違う。  彼女は泣いているのだ。  僕が井垣さんの表情を読み間違えたのには理由があった。  彼女には今、両目がなかった。  両目があった場所には、赤黒い肉片がベッタリとこびり付いているだけだった。  顔の上半分が血に塗れ、井垣さんはそれでも声ひとつあげずにそこに立っていた。  駆け寄る坂東さんの後ろで僕は立ち止まり、振り返って叫んだ。 「六花さん!お願いしますッ!」  聞こえる。  めいちゃんはそう言ったそうだ。  しかし僕があまりにも緊迫した大声を張り上げたものだから、六花さんは弾かれたように公園に向かって駆けだしていた。その時めいちゃんは確かに「聞こえる」と言ったそうだが、六花さんは立ち止まることなく僕たちのもとへと駆けつけてくれたのだ。  めいちゃんも遅れて公園にはやって来た。しかし酷い裂傷を負った井垣さんの治癒に専念する六花さんとは違い、彼女は公園の中まで入って来ようとはしなかった。 「めいちゃん?」  不審に思い僕が歩みよると、彼女は両耳に手を添え、必死に何かを聞いている様子だった。
/59ページ

最初のコメントを投稿しよう!