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また、蝉時雨
惨めになりたくなくて、咄嗟に嘘を吐いた。彼女を困らせたくなかったからではない。光希は、答えを聞くのが怖かったのだ。やんわりと拒絶されるのが。
蝉時雨のなかで、水を打つ音が響く。顧問の隣で、光希の鼓動が跳ねる。
「片付けはしといてやるから、もう上がっていいぞー」
光希が声を掛けると部員たちは礼を述べながら部室に引き上げた。
「わーい。光希先輩ありがとー」
「わっ! バカ、お前っ!!」
戯けた亮太が抱きついてきて光希がずぶ濡れになるというハプニング付きだ。みんなが笑っていた。顧問も。二人きりになったプールサイドで片付けと点検をこなす。
今日は来てくれてありがとう。みんな嬉しそうだった。
いや。俺も楽しかったし。
私も楽しかった。
……。
夏休みはまだしばらくこっちにいるの?
うん。お盆まで。
そう。
今日はさ。
うん?
忘れ物を取りに来たんだ。
忘れ物? 部室かな。早く取りに行かないと閉まっちゃうよ。
部室じゃないんだ。
え? じゃあ、教室? 教室のものはどうかなぁ……。
顧問が顔をしかめる。眉間に寄った皺まで可愛く見えるのだから、やっぱり腹を括らないといけないんだと思う。
俺、先生に嘘吐いてた。
嘘?
鼓動が跳ねる。頬が熱い。熱中症ではない筈だ。
嘘って言ったの、嘘なんだ。
え?
俺、先生が好きだ。
あの日と同じように顧問の顔に驚きが広がった。それから……。
ぎゃーっという悲鳴と共に部室に引き上げた筈の奴らがなだれ込んできて。ぎゃあぎゃあ騒ぐ部員たちを宥めるのに必死になった光希は、顧問の返事を聞きそびれた。
翌日も光希は部活に顔を出したが、顧問に返事をもらうことは出来なかった。部員たちが絡んできて、顧問と二人きりになれない。まるでカップル成立のように囃し立てられて顧問も苦笑している。
いくらなんでもこんなに大勢の前で拒絶されたくない。部員たちは光希の恋が成就したと思い込んでいるのだから尚更だ。て言うか、先生否定して? 俺勘違いしちゃうじゃん?
煩く降る蝉時雨が追い立てるように日々は過ぎてゆく。あっという間に別れの日はやって来て、光希は後ろ髪を引かれながら実家をあとにした。
◇◆◇◆◇
大学はまだしばらく夏休みなのだが、バイトの予定を入れてしまっていた。一週間休んだ分、当分先までシフトを詰め込まれている。電話やメールで済ませたくない光希は、次に帰省出来る日を確認してため息を吐いた。
夕飯にと調達してきたコンビニの惣菜を提げてアパートの階段を上る。スマホのスケジュールを見ながら階段を上りきった光希は前を見ていなかった。
「遅いよ」
声を掛けられて固まる。何で?
「あ。バイトで……」
「そうなんだ。お疲れさま」
「何で?」
「春に葉書くれたでしょ? だから」
何でっていうのは、どうして住所を知っていたかではない。何故ここにいるのか、だ。
「私ばっかり驚かされるのは癪だもの」
顧問が笑った。夕焼けの茜色がその頬を染めている。
「びっくりした?」
びっくりなんてものじゃない。けれど、光希の鼓動が跳ねるのは、驚いているからではない。
「俺、先生が好きだ」
蝉時雨が降っている。けれど告白を掻き消すほどではない。
「うん」
顧問が俯いた。それから顔を上げて、溢れるように微笑む。
今日最後の蝉時雨が二人に降り注いでいた。
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