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「無理……なの?」
少し離れたところでぐすん、と鼻をすする音がして、俺はハッと胸を掴まれる思いがした。
振り向けば、一ノ瀬が口元を押さえて、何かを堪える表情でうつむいている。
ま、まさかあの一ノ瀬が涙? 泣いた? 無理って一言のために? 俺のせいで? 嘘だろ、まさか。
俺は猛スピードで脳内にある一ノ瀬純の取説をめくる。
俺の記憶によれば、この女はもっと図太くていつでもヘラヘラしていて昼食時にはコロッケパンを欠かさないザ・能天気女だったはずだ。
喧嘩っ早くて情に厚い、おせっかい気質のうるさい女。ちょっとやそっとでは凹むことのない、必殺おきあがりこぼし機能が内蔵されており、倒れた反動で相手もなぎ倒すくらいの力は持っている。
その一ノ瀬が、俺に手つなぎを拒否されて泣いた……だと?
ゔああああああああああああああああああああああああああ!!!
今ならギャップ萌えのパワーで聴力機能に障害をきたす120デシベルくらいの絶叫が出せそうだが、理性でグッと我慢する。
……とはいえ、今のは効いた。
まさか一ノ瀬にこんなに可愛い一面があったとは。
女はよく分からない生き物だということを改めてしみじみと冬の空の下に感じる。
そうか。これが恋なんだ。
恋は魔法のような力で、人を変えるものなんだろう。
ストンと何か、腑に落ちる。
俺は勇気を出して、ゆっくりと一ノ瀬に近づく。
人前で手を繋ぐことは死ぬほど恥ずかしいけど、一ノ瀬を泣かせてまで硬派を気取るべきだとは思わない。
壊せ、俺のATフィールド。飛び込め、一ノ瀬のパーソナルスペース。
昨日までの殻をぶち破れ。
恋愛経験値を上げるんだ。
勇者への道はこの一手からだ。
俺は目を閉じ、一ノ瀬の左手のあたりに向かってそっと右手を伸ばした。
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