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次の瞬間。
「へ、ヘックション!!」
俺のメガネも吹き飛ぶような豪快なくしゃみが、一ノ瀬の口から飛び出した。
「はー。すっきりした。さっきから我慢してたんだけど、やっぱり無理だったー。涙目になっちゃった、あはは。あれ? どうしたの、二宮?」
一ノ瀬は近づいていた俺を見上げて、赤く充血した目をキョトンとさせる。
俺は一ノ瀬の手を掴もうとした手を思い切りスイングさせながら言う。
「いや、この辺にちょっと変な虫が飛んでて」
「ふうん?」
ふうんじゃねえよバカ。俺の一世一代の勇気を一瞬で粉微塵にしやがって。
やっぱり一ノ瀬は手つなぎを拒否されたくらいで泣くような女ではなかった。なんだよあの豪快なくしゃみ。初デートで絶対やっちゃいけないやつだろ。
あやうく無駄死にするところだった。
もうこいつを女だと思うのはやめることにしようと俺は誓った。こいつはゴリラだ。メスのゴリラな。距離感取るのも馬鹿らしい。このまま真横を歩いても全然平気だわ。
「今日、寒いねえ」
「……ああ」
わざとそっけない声を出して歩きだした時だった。
俺の手を再び一ノ瀬が引っ張った。
「!!!」
思わず首がちぎれるほどの勢いで右手の先を見ると、丸い笑みを浮かべたゴリラが照れたような赤い顔をしていた。
「やっぱ二宮の方が私よりあったかいや」
「な……」
一瞬にして俺のメガネが曇った。
なんだこのゴリラ──クソ可愛いな!!! ゴリラのくせに可愛すぎるんだけどどういうこと!? 飼育員さん、このゴリラに何食わせたの!?
凶悪なゴリラからの、いきなり強烈なワンパン。
やばい、足がもうふらつく。俺のヒットポイントはあといくつだ?
「か、か、勝手に人の手を、か、か、カイロがわりにすんじゃねえよ!」
「やだ。指先冷えるんだもん」
ゴリラの、ゴリラにしては華奢な指は、確かに冷えていた。
俺はゴリラから視線を外し、小さく舌打ちをする。
「……しょうがねえな」
眉間にしわを寄せながら、俺はゴリラの手を握りしめた。右側だけ全然景色を見ることができない。そっちには大人気のパンダやライオンの檻があって、周りはみんなそっちを見ているのに、俺の視線は「この先トイレ」と書かれたしょうもない看板の上をウロウロしていた。
ゴリラは笑いながら「可愛いね、パンダ」と呟くが、
(いや、ゴリラの方が可愛い)
と思う俺の感覚はおかしいのだろう。常識的に考えて。
ゴリラ──一ノ瀬はずっと楽しそうにはしゃいでいた。
手を握ったままその声を聞いていて、俺は思った。
……ただのカイロでもいいや、もう。
一ノ瀬の手がだんだん温かくなってくるのが嬉しい。
これが恋人の距離感か。慣れるまでにはまだ時間がかかりそうだけど、なんとなくミッションをクリアしたような感覚がある。
これで俺も一つレベルアップかな。
自然と笑みが浮かんだ。その時だった。
「ところでさ、二宮……」
パンダを見ていた一ノ瀬が不意に俺の方をチラ見する気配を感じ、俺はギクッとした。
バレないようにとっさに面倒くさそうな雰囲気を醸しだし、「なんだよ」と問いかける。すると。
「手……痛いんだけど、もうちょっと優しく握ってくれない?」
一ノ瀬は眉を下げて笑った。
俺の頬は引きつってしまう。
天を仰ぎ、叫びたい。
だから、その「もうちょっと」が分かんねえって言ってんだろうがあああ!!!!!
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