かける

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ

かける

この日のための天気だと言わんばかりに、太陽がグラウンドを照らす。 それに加勢するように、白のラインは小さな反射を集めて眩しい。 こんな日差しは得意ではなかった。でも今は、、、 「(ゆう)、もうそろそろ点呼だぞ。」 少し離れたところから僕の友達が声をかけた。 「ありがとう、今行く。」 目を閉じて、少しずつ熱を帯び始めた空気を大きく吸い込んだ。 ーー 誰とも喋れない日々をなんとなく過ごしていると、自分でも驚くほど時間があっという間に過ぎた。教室の中だけならまだしも、所属する陸上部でもそんな感じなのだから、むしろこれは才能かもしれないと自分に皮肉ってしまうほどだ。 中学生の時は部活仲間になじむことができず、皮肉を言えるほどの余裕もなく、一年の夏休み前にひっそりとやめてしまった。 それなのに走ることをやめたくなかった僕は両親に懇願し、ランニングマシーンを買ってもらった。そこから先のお年玉が犠牲にはなったが、学校の友達に会うことなく走ることのできる手段として、当時の僕なりに考えた結果だった。こうしてひっそりと陸上部をやめた僕は、ひっそりと帰宅陸上部になった。 高校生になっても帰宅陸上部を続けていた僕に変化が訪れたのは、11月に始まった持久走の授業だった。僕の走りを見た陸上部顧問に声をかけられたのだ。 最初は愛想笑いでごまかしていたのだが、その頃から僕の走るランニングマシーンの黒いレーンが彩られていった。鮮やかなオレンジ色、少しくすんだ赤茶色、生い茂る緑色、はっきりとした青色ー。 そこからは早かった。両親の承諾を得て、顧問へ入部届を提出した。空の下で走ることはこんなに気持ちよかったのだと、僕の中でわざと眠り続けていた記憶は、大げさすぎるほどに蘇っていった。相変わらず、周りに馴染めず友達はできないままだが、楽しさに身を任せていると、そのうち気にならないようになっていた。 正月休みが明け、僕は今二泊三日の冬合宿に参加している。 標高約1000m、湖のほとりにある合宿所だ。いくつもの宿泊施設と競技場が点在していて、全国から高校生や社会人チームが集まる。競技の種類も様々だ。 この合宿には正直気が乗らなかった。もともと寒いのが苦手だということと、走ることだけに意識を向けて気にならないようになっていた、いや、気にしないようにしていた、独りぼっちを実感してしまうことが予測できたからだった。 寒さに関しては、一日目の練習を終えたころにはすっかり慣れてしまった。同じ風にあっさり友達ができてしまえばいいのに。 最終スケジュールのミーティングを22時に終え、消灯の23時までの1時間は各自の自由時間に充てられた。 ミーティング後すぐ、お手洗いに行ってから部屋に戻った。4人部屋という空間に緊張したのかお腹が痛くなってしまったのだ。 部屋に入ろうとする直前、中から聞こえた声がスローで再生されたように、ゆっくりと一文字ずつ耳から脳内に文字で起こされた。 「高井って何者なの?」 僕の話をしている。それだけわかったとき、全身のすべてのパーツがそこから逃げる態勢をとった。鼓膜はそれ以上の情報を遮断し、ドアノブにかけようとしていた手はぎゅっと固く握られた。反射的に踵を返した僕は、上着のファスナーを一番上まであげながら、合宿所を出た。 あの会話の先が気になっている自分と、気にしまいと思っている自分が喧嘩をしている。 合宿所を出て少し歩くと、湖沿いの道に突き当たった。ちょうど案内板があったので外灯の光を頼りに現在地を確認する。湖に添うように右に進めば、1つポツンとグラウンドがあるようだ。よし、行こう、そう決心するより前にどんどん足がそこへと向かっていた。 そのグラウンドに自分を重ねたのかもしれない。そうやってまた自分で皮肉っぽく心の中で嘲笑う。10分ほど歩いただろうか、他のグラウンドから離れたその場所は、忘れられているような佇まいだった。寂しいほど静かで、今にも寿命が尽きそうなライトが地面を照らしていた。一周200mといったところか、なんとなく全体が把握できた。 スタート地点なんて考えず、僕は走り出した。 冷たく、少し痛くも感じる風が頬をかすっていくのがわかる。 僕が走ることをやめなかったは、忘れられるからだ。 何の取り柄も、誇れることなんて一つもないちっぽけな自分を、その瞬間だけ風がさらってくれるように思えるからだ。 しかし、二周半を過ぎたくらいからか、なんだか苦しい。いつもと違うことは…と走りながら考える。 標高が高い、寒い、この二つが出てきたがすぐに打ち消された。昼間の練習の時も状況は同じだ。 ふと、頭に『高井って何者なの?』とさっき聞いたセリフが響いた。その瞬間、唯一グラウンドを照らしていたライトが音なく消えた。 この場所はどこまで僕とシンクロする気だ。体がずしりと重くなる。でも僕は立ち止まることができなかった。 ほんのわずかな月明かりと、体の感覚を便りに走っていく。 ずっとこうだ。答えのない、ゴールの見えない道をひたすら走ってきた。それがそのまま現実となり、僕は今、ほぼ暗闇の中を走っている。無意識に走るスピードは速まっていく。走っても走っても辿り着かないのに。僕は中学生の頃から何一つ変わってない、変わることができていない。 もう立ち止まってしまおうか、この闇の中に1人、この忘れ去られたグラウンドと共に立ち尽くしてしまおうか。 失速していく中で、僕は気づいた。僕の足音ではない、別の足音が聞こえることに。後方からどんどん近づいてくる。タッタッタッタッ…。擬音が目に見えそうなほどに、その音は一定のテンポを保ったまま近づいてきたかと思うと、僕のすぐ横を追い越していった。 並木翔太くんだ。彼だということは、何故かすぐに理解できた。 “待って。” 声には出さず、重たい体を半ば強引に動かして彼を追いかけた。 3メートルほどまで距離を縮め、彼から届く音を便りに、あとに続いた。 並木くんは、僕と正反対の人間だ。いつもみんなの中心にいて、注目され、慕われている。笑った顔がまぶしい人って本当にいるんだなと彼を見て初めて感じた。入部した日から、そんな憧れを抱いていたからこそ、すぐに彼だとわかったのかもしれない。 時々僕と並木くんの足音が重なる。 無理やり動かした重たかった体は、心なしか少し軽くなった。重なった音はリズムを崩すことなく、テンポよく刻まれた。それが続くにつれ、どんどん体は軽くなる気がした。 楽しい。 今まで走っていて初めての感情だった気がする。 走ることは考えることから逃げるための手段でしかなかったのに。空の下で走って、気持ちいいという感覚はあっても楽しいには直接繋がらなかったのに。 僕は、ひたすら並木くんのテンポに合わせて走った。時間の感覚も、どのくらい走ったかもわからなくなってしまったが、ただ楽しくて仕方なかった。 僕が我に返ったのは、並木くんがスピードを落としたときだった。自然と僕もそれに合わせる。 やがて二人とも歩き出したとき、僕の心臓の音は全身に響き渡り、冷気にさらされた汗がさらりと首筋を滑った。心地いい疲れだ。 並木くんはそのままゆっくりと地面に座った。心地よくても、わかった途端に疲れが出てきた僕も並木くんの隣に座り込んだ。目を閉じると心臓の音が骨まで揺らしているようで、並木くんの心臓の音も一緒に聞こえているんじゃないかと思うほど少しうるさく感じた。 「綺麗だな。」 目を閉じていた僕に話しかけた並木くんを見ると、後ろに両手を伸ばし、それを頭の支えにして真上を見上げていた。 なんのことか一瞬わからなかったが、並木くんを真似て上を見ると、そこには無数の星が散らばっていた。 支えにしていた両手の力が抜け、僕はそのまま仰向けに寝転んでしまった。今度は並木くんが僕を真似て寝転んだ。 真っ暗闇だと思っていたのは僕だけで、この星空は最初から広がっていたんだと思うと、やはり僕はちっぽけなやつだと実感した。 となりで大きく息を吸い込んだ並木くんは、ふーっと音をたてながら吸った息を吐ききるとポツリと言った。 「俺、お前のこと嫌いだったんだよね。」 いつもの僕ならここでショックを受けるのだけど、散りばめられた色も大きさも違う星たちを眺めているせいか、 「そりゃそうだよ、僕みたいな陰気臭いやつ、みんな嫌いだよ」 と自然と口から言葉が出た。僕は笑っていた。 少し起き上がって、僕の顔を覗き込んだ並木くんはさっきよりも声を大きくして 「そうじゃねえよ。お前がいつも涼しい顔して誰よりもいいタイム出すからだよ。なんの努力もいらない天才肌で、がんばってる俺らを見て、内心笑ってんだろうなって勝手に腹立ててた。」 少なからず嫌われているのだろうと思っていたが、嫌われ方と自分の性格のギャップがどうも気持ち悪くて、無意識のうちに早口で話していた。 「ぼ、僕はみんなのことをそんな風に思ったことないよ。友達ができなくて、なんでだろうって考えるとキリがなくて、それから逃げるために走ってただけみたいなところあるし。今までは家のランニングマシーンで満足してたけど外で走ると風があって、家の中と違って、気持ちいいし、もう友達できないって諦めようとしてたから喋らなかったし、でもそんな風に思われてたのは僕がこんなだから…」 声もほとんど聞いたことのない人間が突然早口で喋り出したことに驚きながらも、自己嫌悪が始まりかけたのを察して並木くんは慌てて僕をなだめた。 「違うって、落ち着けよ。勝手に思ってたって言っただろ?な?」 夢中で吸い続けていた息が僕の体内から吐き出されるのを確認して、少し起こしていた体をまた倒しながら並木くんは続けた。 「さっき走ってるとこ見て、何かに悩んでたんだろうなって思ったんだよ。ライト消える少し前に俺はここに来たけど全然気づいてなかったろ?フォームは滅茶苦茶だし、息も荒いし、泣きじゃくりながら走る子供みたいに見えてさ。」 自分がそんな風に走っていたことも、それを並木くんが見ていたことも、どちらも驚きだしどちらも恥ずかしくて言葉が出てこなくなってしまった。赤面している僕を横目に見ると、表情でわかったのか並木くんはフッと笑い、空を眺めながらまた話し出した。 「俺、兄貴がいるんだけど、兄貴も陸上やってて。これがまた天才肌で。するっとベストタイム叩き出すんだよ。で、隣で走ってる俺見て笑うの。俺それがすっげぇ悔しくて。家でもやっぱり兄貴は誉められて、俺は比べられて、もっとがんばれって。“頑張らずに認められる兄貴”と、“頑張っても受け入れてもらえない俺”って自分で認識したときにもう逃げ出したくなって。誰もいない河川敷で夜走ったんだよ。その時の俺って、今日のお前みたいだったのかなって。」 今度は違う感情で言葉が出てこなくなってしまった。眩しいと思っていた並木くんの笑顔には、それをより輝かすための影がしっかりと存在していたのだ。 「俺は勝手に、お前と兄貴重ねてたんだろうなって、思って。だから、、、ごめん。」 ごめんと言いながら、並木くんは僕の方に顔を向けたのがわかった。並木くんが悪いことをしたという考えは全くなく、ただ、いろんな感情で忙しかった僕は星を見上げたまま 「うん。」 とだけ答えた。 並木くんは優しく微笑んで、また空の方を向いた。 そうして何か話すでもなく二人でしばらく星空を見上げていた。無数の点の中に、一筋、線が走ったとき、今度は声が重なった。 『あっ。』 冬の夜空は澄んでいて星が綺麗に見えるが、流れ星もまた一段と輝いていて、その軌跡さえも辿れそうだった。 腕をゆっくりと上げて、空を指差した並木くんは 「流れ星ってさ、ちょっと俺らに似てない?」 と訊ねてきた。正直なところ、何を突然ロマンチックに?と聞き返したかったが、純粋になぜそう思うのか知りたくなったのも事実で、後者を選び、どうして、と訊ね返した。 「悩みの種とか、辛い過去とか、腹がたったことをひっくるめて、それを燃やしながら駆け抜けてくだろ?まぁ、あんな速く走れないんだけどな。」 言いながら恥ずかしくなったのか、並木くんは上着のファスナーを1番上まで上げると、そこに顎を少し入れて誤魔化すように寒そうなフリをした。 実は熱い男が、寒そうにしている姿が面白くて僕は笑わずにはいられなかった。 「並木くんて、熱くて面白いんだね。」 そういって僕がヒィヒィと笑っている姿が並木くんの笑いのツボを押さえたらしく、並木くんもゲラゲラ笑いだした。 お互い少し落ち着いた頃を見て、並木くんは 「ていうか、さっき聞き流しちゃったけど、お前の家ランニングマシーンあんの?」 と笑っていた余韻を残しながら聞いた。 自分の意思でランニングマシーンを買ったこと、それによって、お年玉貯金がなくなったこと、この先のお年玉を受けとれなくなったことを話すと、並木くんはさっきよりも大きく笑いだした。 「ぶははっ!何それ。お前面白いな!」 お腹を抱えて笑いながら、よろよろと立ち上がった並木くんは、星空と一緒になって僕を見下ろした。間を置いて 「みんなに話しちゃおっと。」 そう言いながらニッと笑った並木くんは、合宿所の方へ駆け出した。 「えっ!やめてよ!」 声を上げると同時に起き上がった僕は、慌てて追いかける。突然の追いかけっこが始まった。ビュンと音をたて、全速力で走る。今日1番速く走っているのに、風が痛くない。嬉しいのか、くすぐったくも感じる。 「なぁ!!」 走りながら並木くんは大声で呼び掛けた。 「なに!」 その背中を追いながら僕は叫び返す。 「優って呼んでいい?」 その問いかけがあまりにも嬉しくて少し返事が遅れてしまったが、並木くんの背中めがけて届けるよう思いきり叫んだ 「うん!!!」 「あとさぁ!」 続きがあると思わず、少し走るスピードが落ちてしまった。僕は必死に並木くんを追いかける。なに?と聞き返すより先に並木くんの声が響く。 「夏の大会、こうやって二人で全力で走ろうな!!」 僕は思わず 「ありがとう!!!」 そう叫んでいた。どこまでも届きそうなその叫びに答えるかのように、夜空には2つの星が駆けていった。 ーー ギャラリーが増えていく会場を見渡すと、いろんな色が散らばっていて、大きさもそれぞれで。僕はあの日見た夜空を思い出した。 ぞろぞろと選手たちが位置につく。前方には翔太がいる。僕は短く息を吐くとスターティングブロックに足を置き、かがんだ。 翔太の背中を見つめていると、翔太は思い出したようにこちらを振り返った。 そして僕にニッと笑ってから、翔太も前を向いた。 目を閉じる。 “On Your Marks” 大空に響くピストルの音と共に、2つの星は勢いよく駆け出した。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!