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それから10年の歳月が流れた。
僕は何不自由なく過ごして、高校も大学も普通に卒業し、それなりに恋も苦い失恋も経験して、就職した会社も3年目。毎日が忙しくて、僕の一族の話もいつしか頭の隅に追いやられていた。
営業マンとして毎日セールスに苦心する日々だった。僕は営業が苦手だった。頭を下げてご機嫌を伺い、言葉巧みに相手を誘導する。学校では1人小説や漫画を読み耽っていた僕にはとても向かない仕事だった。そろそろ辞めようかな、なんて考えてる時だった。田中さんと出会ったのは。
最初から嫌な予感はしていた。激しく咳き込んでいたし、奢ったコーヒーをなんだか不味そうに飲んでいたし。熱心に売り込みをしても心ここにあらずのような顔をしていた。契約が取れなかった事よりも、早く逃げ出したいような気分にさえなった。
それから3日後のことだった。田中さんが新型コロナウイルスというものにかかったらしいという事を知ったのは。世間はまだまだこのコロナウイルスがどんなものか知らずに、僕もただのインフルエンザだと軽い気持ちでいた。
だから体調も悪くなかったし多分大丈夫だろうと楽観視して、一応気休め程度にマスクだけは付けて仕事に精を出していた。休めとも言われなかったし、休んでしまったら生活が出来なくなる。みんなと同じように、僕も忙しかったのだ。
ところが、田中さんと会って丁度10日目の日だった。朝起きたら、なんだか体が重く熱っぽいなと思い、体温を測ると38.7℃とびっくりするような数字が出た。自分の身体の具合の悪さよりも、そのデジタル数字の表示を目にして一瞬で気分が悪くなった。
測り直してみても数字は変わらなかった。世間では徐々に新型コロナウイルスの恐怖が蔓延していたから、すぐに田中さんの咳き込んでいた情景が浮かんだ。ヤバイと思った。気が気じゃなかった。
とりあえず上司に電話する。5秒ほどで電話が繋がった。
「もしもし」
「星野か。どうした?」
「すいません。熱が出てしまったみたいで今日は……」
「はあん? お前今日朝礼スピーチの日だろ。熱ぐらい何とかしろ」
「いや、今体温測ったら38……」
僕の言葉を遮るように上司が言う。
「はぁ? ふざけんなよ? 最近ノルマ全然達成出来てないよな? ちょっと気分悪いぐらいですぐ休むのか? おまけに朝礼スピーチまで俺に丸投げか? 根性が足りないな。認められません。いいから来いよ。ちゃんと責任持ってくれよ。話はそれからだ」
そう怒ったように言い放って、プツっと電話は切れてしまった。
助けてくれる人は誰もいなかった。僕は渋々重い身体を無理やり叩き起こし、会社に向かう事にした。
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