その1

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その1

煌びやかな灯りに照らされたその頬は、私の手に触れていた時よりも微かに仄赤い。こちらを見透かしているかのような瞳に射貫かれても、少しも動悸が起きなかった。 カネボウ、ジバンシイ、イヴ・サンローラン、ポーラ。 幾つものブランド名を刻んだ看板の海から浮かび上がるかのように女は近づいてきた。視線を外にやると、白い物が空からひらひらと零れている。  この場所からも硝子越しに細雪が見えた。女の手が私のコートの袖口を掴み、色とりどりの宝石が集う店先へと歩を進ませる。道中、ハンドベルの演奏をする少女達の横顔がちらと見えた。私が立ち止まりそれに興味を示すと、女は唇を尖らせたが、何も云わずに私の横で同様に見物する。 伸びやかな高音が耳朶を揺さぶる。時間が弛緩していく感覚が私を覆うのと同時に、昼日中だと云うのに睡魔が耳元で囁き出す。白いコスチュームを身に纏った五人の女性は恐らくは女子高生であろうか、その中央に立つ艶やかな黒髪を腰まで伸ばした少女は、時折メロディを確かめているのか、口元を半開きにしたまま何事か呟いている。白く大きな前歯が何時までも私の視界から離れなかった。女にまた手を引かれて、私は後ろ髪を引かれる思いでハンドベル隊をから視線を外して、女の後を付いて歩いた。    人混みでごった返した高島屋のロビーを彩る喧噪に少々悪酔いしてしまい、それは地下の食品売り場に降りたところで臨海に達した。甘ったるい菓子の匂いが鼻をつき、私はかぶりを振って、俺は上で待っていると、女に意思表示をした。女は渋面を作ったが、微かに頷いて、人の波の中へ分け入っていく。女の後ろ姿を見送ると、エスカレーターで一階へと上がり、丁度空きが出たベンチに腰掛けて、あのハンドベル隊の中からあの黒髪の少女を探した。少女たちが鳴らすハンドベルの音の心地よさが何処から来るものなのかはわからない。わからないが、足を留めて聴くに足る音だと感じられた。彼女たちの手の甲に浮かび上がる薄く蒼い血管が、私には何か藝術のように思えてならない。演奏が終わり、拍手に包まれる彼女たちを見つめていると、大量に購めた食料品の類が詰められた紙袋を抱いた女が、私を見下ろしていた。微かに首を傾け、うっすらと微笑みを浮かべている。私は立ち上がるとその微笑みを置き去りにして、高島屋を正面玄関から出た。女は相変わらず嬉しそうな笑みを浮かべたまま私を追ってきた。私はそのまま河原町通りを三条の方へと進む。 「寒いなぁ。ここまで寒いとは聞いてへんかったで」 女が微かに洟を啜りながら非難めいた言葉を投げかけるのを私は無視した。振り返ると洟が微かに紅い。 「もう着くから。着いたらとりあえず風呂でも入るといい」 私の言葉に女は微かに首を縦に振った。先程までの温かな場所にいた折の白さとは違う、頬が紅を潮していた。 「京都は盆地だから」 「北はもっと寒いんやろう」 「ここらでは降らなくても、北では降ってるってことはよくあるね」 「じゃあ今頃北の方は吹雪いてる?」 「鞍馬とか、あの辺りまで行けばそうかもな」 女から受け取った荷物が少し苦になってきたところで、丁度宿の玄関まで着いた。三条通に面したこの宿は、繁華街がすぐ近くにあると云うのにも関わらず静かであり、古風な空気が漂うその外観は、鮮やかに私を過去の時代まで連れて行ってくれる。玄関口の扉を開けると中からすかさず番頭がやってきて、お帰りなさいませ、手が悴むでしょう、これを使ってくださいましと、私たちに熱い手拭いを渡した。荷物を置いてそれを両手に包み込むと、寒さで震えていた掌が弛緩していくのが感じられた。ふと女の手の甲が視界に映り、其処に浮かび上がる薄く蒼い血管は、先程のベル隊の少女のものを彷彿とさせる。番頭に礼を云って手拭いを返し、部屋の鍵を受け取ると、そのまま廊下の奥にある宿泊部屋へと戻る。襖を締めて部屋の中に置かれた電気ストーヴの電源を入れ、コートを脱いでそのまま浴衣に着替えると、途端に眠気が襲ってきた。女はまるで自分の部屋に戻ってきたかのように大きく伸びをした後、くるくると巻いたその髪を解かし、油の匂いを部屋に微かに散らした。私が籐椅子に肘をかけてその様を静々と見つめていると、女はその視線に気付いたのか、微かに頬を紅潮させて私を睨み付けた。 「何や助平やなぁ。あんまり視んといてんか」 女の言葉に私は微かに頷いて、視線を外すと、丁度この座敷に置かれた籐椅子にもたれた位置から見える、恐らく六畳ほどの広さであろうか、そこにこじんまりと佇む坪庭を見つめた。先程よりも雪の勢いは弱まり、夕闇に暮れる空模様と相まって、外を包む灰色がますます色濃くなっていた。 「寒そうやなぁ。今この格好で外を歩いたら皆驚くやろうか」 「試してみるといい」 私の気のない返事に女はさもつまらなそうに舌を出すと、そのままくるりと反転して、居間の奥に備え付けられた風呂場へと赴く。その折に微かに揺れたその太股の肉の弛みに私は微かに心を動かされた。女の肉を見る度に、私の中に藝術的な感興がわき上がってくる。そうしてその肉片は何時しか私の中で渦を巻き一つの姿を形成する。昨日訊いた華村観音という大正時代の女画家の幻影が今も眼の奥にちらつき、私の脳中に、延々と尾を引いて居座っているのを感じていた。細雪が淡雪へと変じるのを横目で見やりながら、私は籐椅子に肘をつけたまま左手を伸ばして仕事鞄を取り、中から昨日訪なった某屋敷で渡された資料と呼べるかもどうかもわからない、十数枚綴りのざらばん紙の束を取り出す。その束というものはその屋敷で訊いたある女画家について仔細に書かれた文書と、かの女が描いた日本画が数点、それから其処にはその女の写真も付記されているのだが、無論モノクロームであり、そのためか写真に映る女の肌というのは、自然白と黒との深い陰影に彩られ、宛ら幽霊を思わせるような色味であり、視詰めていると震えるような怖気を覚える。それは彼女が描いたと云う日本画も同様で、こちらに描かれた女人の肌もモノクロ写真に映る女同様、透き通るような白さである。こうしてそれらの絵と写真を交互に見つめている内に、絵に描かれた女と写真に映る女の顔が折々重なって見え、万華鏡の中に閉じ込め込まれたかのような不思議な感覚を私に与えていた。
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