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「ゆかちゃん、お手伝いして。」
台所にお母さんの声が響いた。
「は〜い。」ゆかちゃんは元気にお返事をする。
「このおやつをおばあちゃんに持っていって。」お母さんは果物を切る手をやすめると、ヨーグルトの入ったカップをことづけた。
ヨーグルトにはおばあちゃんの大好きな、きな粉がたっぷりかかっていて、蜂蜜と赤い実が添えられている。ゆかちゃんは落とさないように、ソーサーごと両手でそうっと持って運ぶ。白い陶器のスプーンは、歩くたびにカチカチと音を立てた。
引き戸を開けると、おばあちゃんはロッキングチェアーに腰掛けて窓の外を見ていた。おばあちゃんのお気に入りの場所。ゆかちゃんが小さな頃、椅子をふざけて揺らしすぎてお母さんに怒られたことがあるっけ。「ゆらゆら」揺らすよりも「ゆーら、ゆーら」ゆっくりと揺れるので充分なんだって。速いほうが楽しいと思ったんだけど。ゆっくりが好きなら、おばあちゃんの好きにさせてあげないと。
「おばあちゃん、おやつ持ってきたよ。」ゆかちゃんはロッキングチェアの隣の机にヨーグルトをおく。
「はい、お手伝いありがとう。」引き締められていた口元が緩んで、ゆかちゃんを見るおばあちゃんは笑顔になる。それからカップを持ち上げるとヨーグルトを美味しそうに食べ始めた。
テーブルの上には細長い箱が置いてある。多分古いものだ。蝶番はちょっと錆び付いているけれど、表面の花柄はテカテカときれいに光っている。きっと素敵なものがしまってあるんだね。
ゆかちゃんはその箱を指差して言う。
「この箱なあに?おばあちゃんにとって、大事なもの?」
ゆかちゃんは思う。本当は中に何が入っているか知っているんだ。前に一回、こっそり開けてみたことがあるの。中に入っていたのは、金属でできたキラキラ光る楽器。横に穴がたくさん並んでいて、ハーモニカって言うんだって幼稚園で習ったよ。でも、おばあちゃんが弾いているとこ見たことないや。おばあちゃん歌が好きだから、弾いたらいいのに。使わないなら、出してないで仕舞えばいいのに…
「これはね、おばあちゃんの宝物なの。大切な人からの贈り物。ハーモニカよ。でも壊れちゃってね。いまは音が出ないんだよ。」おばあちゃんは、ヨーグルトを食べ終えると、空になったカップを机に戻す。それから、いつものように手でハーモニカの箱の蓋にそっと触れた。もっとお話ししたかったのに、おばあちゃんは口をモゴモゴさせて目を閉じて。そうして、眠っちゃったみたい…
懐かしい声がして顔を上げる。目の前に現れたのは、あどけなさの抜けない黒髪の青年。私は目を細めてその汗ばんだ顔をじっと見入る。夢の中のあなたは、ちっとも歳を取らないのね。
「ごめん、待たせたね。」青年は口を開く。
「遅いよ、もう。いい加減、待たせすぎ。」私は口を尖らせた。
やだ、私ったら。なんでこんなに怒っているの。せっかく彼に会えたのに。やっと私に会いに来てくれたのに。
「仕方ないだろ、仕事なんだから。」彼は黙り込む。私も口をきかない。
二人してとぼとぼと一緒に家路を急ぐ。彼はむっつりしかめっ面で俯いたまま。私も黙って、その早足について行く。でも、心の中では笑顔に戻るタイミングを探していた。
夕日が沈んだ黄昏時、鴇色の光は二人のピンク色に染まった頬を隠してくれる。青年は大通りを外れて、田んぼの畦道を歩き出した。私も彼の後を追う。
「この道、近道なんだよね。暗くなる前に急がなきゃ。」青年が見上げる空には、一番星がポツリ。また一つ、ポツリ。
この畦道は、家に急ぐ時によく通る。でも、日が沈むと真っ暗になって怖いから、一人の時には通らない。彼と一緒の時だけだ。足元が暗くなりおぼつかなくなった私は、思わず彼の手を握った。彼は立ち止まると、振り返って唐突に言った。
「俺、ハーモニカ持っているんだ。聴くかい?」彼は私の返事を待たずに、持っていたカバンの中からハーモニカを取り出した。歩きながらハーモニカを弾く。彼の演奏は、息は途切れ途切れ、音は飛び飛び。なんの曲だか全然わからない。変なメロディーは、蛙の合唱にかき消されて、私は思わず吹き出した。
彼はそんな私をよそに、今度は鞄を下ろして畦道に座り込んだ。私も黙って、隣に座る。彼は、大きく一つ深呼吸して、今度はゆっくりと吹き始めた。
一曲、また一曲。
私は驚いた。彼の演奏を聴くのは初めてだ。どの曲も、私が好きだと以前言った曲ばかり。私のために、彼は一生懸命練習してくれたんだ。私は、涙が出そうだった。いろんなことがあったけれど、彼との思い出はいいことでいっぱい。これからの二人は、どうなっちゃうんだろう。そんな不安も、忘れさせてくれる。
メロディーに合わせて、蛙の声が止む。まるで蛙も一緒に、彼のハーモニカを聴き入っているみたい。空では夕暮れが闇へと暮れ始め、星屑がそこかしこと輝き始めた。私は星空を見上げる。まるで、河原の石みたい。
彼のハーモニカが止むと、蛙たちはいっせいにまた鳴きはじめた。
「遅くなっちゃってごめんね。」と彼。
「もう一曲だけ、聞かせて。」と私。
彼は少し照れたように、ハーモニカを口につけた。
アンコールの曲は夜空に響き、星屑たちは輝きを増す。
「ずーっと、一緒にいたいな。夜が明けるまでこうしていたいな。」私はハーモニカに耳を傾けて、そっと目を閉じる。
「お母さん、おばあちゃんにおやつ運んだよ。」ゆかちゃんは空になったカップを持って、キッチンに戻った。
「ご苦労さま。はい、これはゆかちゃんのおやつ。」お母さんはカットしたフルーツの皿をさし出した。ゆかちゃんの大好きなオレンジと今日はぶどうが載るっている!
「おばあちゃん、何していた?」おかあさんがたずねる。
「また、あの箱を撫でていたよ。」ゆかちゃんは、水道で手を洗いながら答えた。オレンジのいい香りが部屋に漂っている。
「ねえ、お母さん。あの箱の中に入っているハーモニカ、本当に音が出ないの?」ゆかちゃんは気になっていたことを、お母さんに聞いてみた?
お母さんは、ちょっとだけ困った顔をして、
「ハーモニカはね、おばあちゃんの大切な宝物だから、触ってはダメよ。あの箱はね、『おじいちゃんの形見』なの。」と、いった。
「かたみ、ってなあに?」ゆかちゃんは、尋ねる。
「大切な人が、亡くなる前に残してくれたプレゼントよ。」お母さんが急に、声をつまらせた。
「ゆかちゃんが生まれる、ずっと前の話よ。」お母さんはそれだけ言うと、黙ってしまった。
ぶどうの粒を房から取りながら、おばあちゃんの部屋の扉を二人して見つめる。扉の向こうから鼻歌が聞こえてきた。大好きな歌を、おばあちゃんが歌っているんだ。
「おばあちゃん、起きたみたいだね。」ゆかちゃんが言う。
「おばあちゃん、いい夢を見たみたいね。」お母さんは笑顔になっていた。
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