その1

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その1

 旅館の軒先に、一輪の椿のつぼみがあった。白色が花やかで、底に多くの色があった。客の少女がそれに触れた。少女の手の中で、つぼみは真白な鏡だった。少女の羞恥で赤くなった。百子がのぞいたせいだった。  百子は腰を下ろして、その小さなつぼみを掌にのせた。つぼみの脇の草葉にかかる雪が、火を受けたように溶けていくのが、つぼみの白と百子の肌とに重なって、境目がなくなった。つぼみは冷たい水に震えるようだった。  谷崎はその様を見て、心が澄み渡るの感じるのと同時に、雪に浮かぶ百子の美しいのが目に痛いほどだった。冷たい水が胸に注がれたような心地だった。  夜になり、空が曇ってきて、細い雨が坪庭に線を引いていた。百子の肌は、春の雨に降られたように、かすかに赤く湿っていた。まだ梅もつぼみの頃だが、室内はガスストーブで温められて、百子には夏のようだ。 「もうお帰りですの?」 谷崎は頷く代わりに羽織を纏った。そのまま布団の上に座ると、指先を伸ばした。百子はその手を取って、枕元に置かれた爪切りで、谷崎の伸びた爪を丁寧に切っていく。金属音が室内に響いた。 「こんなにつるつるなのに。」 「毎日切っているのによく伸びるもんだ。子供の頃よりもよく伸びる。雨のせいかね。」 自分の言葉にはっとして、谷崎は口を噤んだ。表情に変化はないが、それでも百子の心根に微かな細波が起きたことは、想像できた。 「服を着ないのか。」 「部屋が充分に温かいでしょう。今着ると、汗で蒸れちゃいますわ。」 そう言った百子の顔は、先程と変わらずの無表情である。時折、能面のようだと、谷崎は思うことがある。会った当初から変わらずそうだった。今ではそれが彼女の本来であるように思える。  谷崎は幼心で自分に爪を切らせているのではないかと、百子はそう思うことがある。それだから、さっきのような言葉が出たのではないかと、百子は訝しんだが、一人静かにかぶりを振って、何事もなかったかのように爪を切り続けた。 「昨日、青井先生が来られましたわ。」 「また君目当てだろう。」 「あら。青井先生には奥様がいらっしゃいますわ。」 「俺だっているさ。」 「あなたの作品を見にいらしたの。あの茶器……。」 「あんな駄作でも欲しがるやつがいるんだな。」 百子は苦笑した。青井は谷崎の主治医だが、谷崎の顧客でもある。自分の得意先に対しても、谷崎の不遜な態度は変わらなかった。それが谷崎の性格でもあったが、百子が谷崎に興味を抱いたのは、そのような子供らしい傲岸さに理由があるのかもしれなかった。 「あなたのお作りになるもの、とてもきれいですわ。私だって欲しいくらい。」 「いくらでもやるさ。あれよりも幾分も上等なものを拵えてやるから。」 谷崎はそう言うと、どこか遠くを見るような目をした。谷崎は、いつも遠くを見ている。 帰る前に風呂でも浴びようと百子に言うと、谷崎は羽織ったばかりの単衣を脱いで、そのまま奥の風呂場へと向かった。百子は裸のまま立ち上がり、谷崎の後に続いた。畳一枚ほどの浴槽は年老いた桧で、香るようだった。二人で入るには小さすぎたが、その小ささが親密だった。百子が浴室に入ると、谷崎の背中が見えた。煙の中に、汗の玉がてらてらと輝いていた。 「お流ししましょうか。」 桶にくんだ湯を背中にかけると、谷崎は寝言をつぶやくように呻いた。石鹸でタオルを泡立たせると、百子は丁寧に谷崎の腕を洗ってやった。歳のわりに、鍛えられている。それは、意図して鍛えた肉体ではなく、生活と仕事の往復とで作られた肉体だった。この腕から産み出される芸術にいくらでも払う人間がいると思うと、この腕そのものが芸術ではないかと思えてくる。身体を洗い終わると谷崎は湯船に浸かり、大きく息を吐いた。続いて身体を洗い終えた百子が入ると湯船の水が溢れた。波の音のように聞こえた。百子のやわらかな肉に触れて、谷崎の筋肉は微かに硬直した。 「お湯に浸からないと寒いですわね。」 「所詮は木で出来ているからね。風がどうしても抜けるんだよ。」 「マンションとは違いますわね。」 「でも匂いがいいだろう。」 そう言って、谷崎は濡れた桧の縁の匂いを嗅いだ。百子もそれに倣った。天井から零れ落ちる滴の音に、百子は夢の世界に誘われるようだった。何か、大人同士の恋愛ではなく、子供がお遊戯をしているように思えた。 「木工をやっているとね。何でも木じゃなくちゃあ嫌になるんだよ。」 「先生の家には、鉄のものがありませんものね。木や硝子や……。」 「自分が冷たいからかね。どうも肌に触れて温かみのあるものじゃあないと、美しいと思えないんだよ。」 「それは生き物でも?」 「死体愛好家ならそれでもいいんだろうがね。女の造形は美しいだろう。でも、生きていないと美しくないよ。器だけじゃあ美しくないんだ。あの温かみは、生きているからこそだ。」 百子は、両腕を湯船から出して風呂の縁に頬杖をついた。立ちのぼる湯気は絶え間なくて、霧に包まれているようにも思えた。  風呂場から上がると、鏡を前に髪を直した。その光景を、興味深そうに谷崎は見つめていた。 「あんまり見られると恥ずかしいわ。」 「また暫く会えないだろう。見納めだよ。」 「まぁ。まるで死んじゃうみたい。」 「死ぬようなものさ。」 そう言って谷崎は笑ったが、百子は正反対だった。谷崎は立ち上がると自分の鞄を空けて、中から風呂敷を取り出した。するりと風呂敷を解くと、中から桐の化粧箱が出てくるのが、鏡越しで百子の視界に映った。 「何ですの?」 「君へのプレゼントだよ。」 そう言って取り出されたのは、息を呑むほどに黒い棗だった。漆が見事に照り輝いていた。闇の中でも光るのが想像できた。 「まぁ。きれいな棗。」 「いくつも持ってはいると思うがね。使えるもので、美しいものも入り用だろう。」 そう谷崎は言うと、静かに瞳を伏せた。傲岸な男ではあったが、百子を前にすると、彼女の心理に幾つかの遠慮を抱くのが、百子に不思議だった。 「吸い込まれそう。」 「黒は一番美しい色だと思うよ。」 それには百子も、半分は同感だった。黒が一番美しい色だというのは、子どもにはわからないかもしれないが、大人になれば誰でもそういう心持ちが芽生えるように思えた。 「『春琴抄』は知っているか。」 「知っていますわ。自分で自分の目を突く物語でしょう。」 「あの本にはね、いくつかの版があるんだよ。初版は黒漆のものでね。ボール紙に黒漆の装丁だ。谷崎が拘ったらしい。」 「お金がかかっていますのね。」 「本の装丁を漆で行うのがいいね。憧れる仕事だよ。その黒色の『春琴抄』には、もう一つ、朱い漆のものもある。それは巧くボール紙に漆が乗らなかったらしくてね、試作品の域を出なかったんだが、数十冊が市場に出回っている。」 「市場?」 谷崎は好事家だった。書斎には溢れるほどの古書が蒐集されていて、床の底が抜けるのではないかと、百子は時折心配になったことを思い出した。 「そういう場所に、時折ひょっこりと現れてね。大枚で取引されるわけだ。」 「貴方も持っていらっしゃるの。」 「ひとセットだけね。それも桐箱に入っていて、谷崎の献呈署名と押印がされている。」 「贅沢な御本。」 「化粧箱から取り出して、その二つを並べると、夫婦のように美しく思えてね。黒と朱の色合いがとても調和をしていて、見事な光沢なんだ。」 百子を暫くの間待たせると、谷崎は今度は鞄からその桐箱を持ち出して、その中身を丁寧に取り出した。 「それもここまで持って来ましたの?」 百子がほほえむと、 「君にも見せてやろうと思ってね。」 畳の上に寝かされた二冊の本は、それぞれが鈍い光沢を持っていて、その光が内側から輝くようだ。 「本当に、夫婦みたい。」 百子は、指先で朱い表紙の『春琴抄』を撫でた。それからまた、黒の表紙のものも撫でた。そうしていると、横に佇む棗の色に目がいった。あの吸い込まれるような見事な黒色は、百子の部屋の朱い棗の対となるように、谷崎が拵えたのかもしれなかった。 暫くの間谷崎と二人でいると、障子がかたかたと震えた。古い普請だからか、隙間風が時折ある。この宿に泊まる度、この音を聞くことがあった。市内の中心にあって、外からの嬌声が聞こえないことが、百子に不思議だった。  谷崎はその後、その棗の制作の苦心を一頻り語ると、暫く百子を愛でて、それからまた自分の屋敷へと戻っていった。
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