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ふたつのまん
私立百合ヶ咲女学園高等学校──通称百合女は、全国津々浦々から育ちと頭の良い人間ばかりが集まる、いうなれば日本屈指のお嬢様学校だ。
純白の校舎に汚れは一つもなく、あちらこちらに散見される花壇には大小様々の色鮮やかな花が植えられている。
まったくもって自分には不釣り合いな場所だ。
そんな想いをヒシヒシと感じながら、あたしは昼食の菓子パンを口に運ぶ。
「そうそう、こないだバイオリンのお稽古で──」
「まあ、それは素敵ですわね──」
「わたくしもピアノを──」
クラスメイト達の賑やかな談笑は、耳に差し込んだイヤフォンから流れる音楽のおかげで聞こえない。
聞こえていたとしても、あたしに理解出来る話は少ないだろう。
はぁ……何でこんな学校に入学しちゃったかな……。
あたしは心の中でため息を零しつつ、後悔すべき過去を思い返していた。
あたし──速水飛鳥は、お嬢様でも何でもない。
ごくごく普通の会社員と、ごくごく普通の主婦の間に誕生した、ごくごく普通の一般人である。
髪の毛を金色に染めているとか、制服を着崩しているとか、ほんの少しだけ胸が小さいとか、その程度の事は普通の若者であれば大して珍しくもないだろう。
そんなあたしがどうして日本屈指のお嬢様学校に入学したのかだが──そこに深い理由は無い。
たまたま勉強が出来て、たまたま通いやすい場所にあったから。
特に将来の夢や進学したい高校の無かったあたしは、そういった軽々しい理由で、何も考えずに百合女を受験したのである。
そして結果は見事に合格。
両親は我が家から秀才が生まれたと大喜びし、あたし自身も悪い気はしなかった。
……しかし喜んでいられたのも、ひと月前の入学式まで。
お嬢様学校に於けるあたしは酷く浮いた存在だったらしく、周りの新入生達は誰もあたしに話しかけてこようとはしなかった。
中にはあたしを指して、「あの子は不良だから関わったらダメですわ」なんて陰口を叩く奴らもちらほら見受けられた。
クラスが決まった後は話しかけてくれる奴も居たけれど、お嬢様とあたしじゃ話が合う筈もなく、みんな次第にあたしから離れていって……。
そんなこんなで五月になった今、あたしはすっかりクラスの中で孤立してしまっているという訳だ。
幸い校則が緩いおかげで髪を染めていようが制服を着崩していようが咎められる事はないけれど、これから三年間こういう生活が続くのかと思うと、ズーンと気が重くなる。
やっぱり少し遠くても普通の学校を受験しておくべきだったな……。
そう思っても後悔は先に立たずである。
「ごちそうさま」
菓子パンを食べ終えたあたしは小さく呟くと、ゴミをカバンの中に押し込んだ。
それからふと、窓際の一番後ろの席に視線を向ける。
そこには一人の少女が座っていて、何をするでもなく、ボンヤリと窓の外を眺めていた。
艶めかしい黒髪に良く映える白い肌。
涼し気な目元に流れる長い睫毛。
比較的美形が多い百合女の中でも、ずば抜けた存在感を誇る美少女だ。
窓の外を舞う桜の花弁も相まって、その横顔は一種の芸術品のよう。
名前は確か……そう、大道寺華子。
なんでも、日本有数の超金持ちである大道寺家の跡取り娘だとか。
入学式の時、大勢の新入生が挙ってあいつの周りに集まっていたのを覚えている。
大方、名家の娘であるあいつと仲良くなりたかったんだろうけど、あいつはそのいずれも相手にしなかった。
美人で、金持ちで、胸も大きい。
けれど、無口無表情で、何を考えているのかわからない。
最初はハエのように群がっていた有象無象のお嬢様達も、一人また一人と、あいつの元を離れていった。
中にはあいつを指して、「大道寺様は高嶺の花ですから、わたくし達が話しかけて良い相手ではないのですわ」なんて陰口、もとい、陽口を叩く奴らもちらほら見受けられた。
あたしと大道寺は客観的に見れば同じひとりぼっちだけれど、明確に違う点が一つだけある。
あたしが孤独だとするなら、あいつは孤高だ。
誰かの言った高嶺の花という言葉が、これほど当てはまる人間も居ないだろう。
「?」
──あたしの視線に気づいたのか、大道寺が不意にこちらを振り返った。
「っ!」
ほんの数秒ほど目と目が合った後、あたしは何事も無かったかのように視線を逸らす。
表情こそ平常を保ったものの、あたしの心臓はバクバクと跳ね上がっていた。
『何見てるのかしら速水さん』とか、変に思われてなきゃいいけど。
……いや、大道寺はそんな事を思わないか。
そもそも、あたしの名前を知っているかすらも怪しいし。
あたしがフウと一息吐いたタイミングで、昼休みの終了を告げるベルが鳴り響き、それと同時に五時限目を担当する教師が教室に入ってきた。
先程まで席を立ってお喋りに興じていたお嬢様たちが、機械のように口を噤んで自分の席へと戻っていく。
頭の悪い学校だったら、教師に怒られるまで喋り続けていそうな物だけど、そこは流石百合女。
気持ちが悪くなるほどの勤勉具合である。
「では五時限目、数学の授業を始めます。前回の続きからですので、三十四ページを開いてください。……次の図形の方程式の求め方は──」
生徒が生徒なら、教師も教師だ。
ジョークを挟む事もなく、ついて来れない奴は置いていくぞと言わんばかりに、淡々と早いスピードで授業を進めていく。
ああ……教師も生徒もみんなでワイワイとはしゃいでいた中学時代が懐かしい。
*******
六時限目の授業とホームルームが終わった後、あたしはカバンを肩に背負って、そそくさと教室から飛び出した。
大半の生徒達は部活動に勤しむなり習い事に向かうなりするものだけれど、あたしはそのいずれにも当てはまらない。
あたしの日課は、まっすぐ家に帰って中学時代の友人やら後輩やらとメールをしたり、音楽を聴きながら惰眠を貪ったり、ほんの少し時間が余れば勉強をしたり。
つまんない奴と思われるかもしれないが、あたしにとってはこの学校で過ごすよりも、そういう時間の方が何倍も楽しく感じるのだ。
「行きますわよ〜!」
「あはは」
「うふふ」
あたしの足が校門に差し掛かった時、近くのテニスコートからテニス部員達の楽しげな声が聞こえてきた。
「…………」
羨ましいだなんて思ったりはしない。
どうせあたしがどこかの部活に入った所で、孤立するのは目に見えているのだから。
「はぁ……」
自分が何だかとても惨めな存在に感じて、ため息を漏らす。
気を紛らわすためにイヤフォンを耳に差し込んで音楽を再生した。
しかし、流れてくるのは耳が痛くなるほどの雑音ばかりで、肝心の音楽が聴こえてこない。
「えっ、ちょっ、何で!?」
あたしはここが校門だという事も忘れ、ついつい素っ頓狂な声を出してしまった。
「?」
「あの子、一人で何を騒いでいるのかしら」
「ほら、噂の不良の子じゃない? 新しく一年生に入ったっていう」
「ああ、あれが……」
当然、周りの生徒達は奇っ怪な物を見るような視線でこちらを見つめている。
しまった……! あたしは恥ずかしさに顔を赤らめつつ、急いでその場から立ち去った。
「──何で急に音が聞こえなくなっちゃったんだろ。この、この、おっかしーなぁ」
何度かイヤフォンを音楽プレイヤーの端末に抜き差ししてみるが、相も変わらず流れ続けているのは耳障りな雑音ばかり。
ちなみに音楽プレイヤーからは普通に曲が流れているので、問題があるのはイヤフォンの方だろう。
「……ダメだ、完全に壊れてる。セールで買った安物とはいえ、一ヶ月も使わない内に壊れるのは流石にショックかも……」
あたしはガックリと肩を落とすと、壊れたイヤフォンを丸めてカバンに放り込んだ。
さて、これからどうしようか。
あたしにとってのイヤフォンは、登下校中のお供であり、学校での孤独を紛らわせてくれる友達でもあるのだ。
「しゃーない、新しいのを買うっきゃないかー……」
都合が良い事に、あたしの財布には今月のお小遣いの五千円が入っている。
更に都合が良い事に、あたしの目の前には全国チェーンのコンビニエンスストアが建っていた。
正直お小遣いを使いたくはないけれど、明日からイヤフォンが無い生活を送るよりかはずっとマシだ。
ハァ、とため息を零してコンビニに足を踏み入れる。
「らっしゃいませー!」
元気の良い店員の挨拶を受けつつ、あたしは入口近くの電気製品コーナーに目をつけた。
充電器……変電器……乾電池……電子タバコ……あった、イヤフォン。
値段は安い物から高い物まで一通りが揃っているようだ。
「よし、これに決めた」
音質の善し悪しに拘りはなく、音楽さえ聴ければそれでいい──あたしは迷わず一番安い物を手に取った。
さあ、後は会計を済ませるだけだ。
そんな事を考えつつ、レジに向かおうとしたその時──。
「らっしゃいませー!」
入店音と店員の元気の良い挨拶がコンビニの中にこだました。
あたしは反射的に入口の方を振り返る。
「あ──」
最初に目についたのは、今あたしが着ている物と同じ百合女の制服だった。
次に、艶のある黒髪と、それに良く映える白い肌。パッチリ開いた二重まぶたと長い睫毛。高校生らしからぬボディライン。
コンビニに入って来たのは、あたしと同じクラスの大道寺華子だ。
しかし、どうして大道寺がこんな所に……?
あたしはまだしも、百合女のお嬢様とコンビニってミスマッチ過ぎるだろ。
「…………」
大道寺もあたしの存在に気づいたようで、こちらに視線を向けた。
「…………」
お互い顔を見合わせたまま無言が続くというのは、とてつもなく気まずい。
「あ……、あー、だ、大道寺さん? き、奇遇だねこんな所で」
あああああっ! 何言ってんだあたしは!
噛み噛みだし声も裏返ってるし……。
ちなみに、大道寺に声をかけたのはこれが初めてである。
「……そういう貴女は、速水飛鳥さん」
相変わらず何を考えてるんだかわからない無表情のまま、大道寺はあたしを観察するようにジロジロと見回している。
つーかこいつ、あたしの名前知ってたんだ……。意外に思うと同時、ほんの少し嬉しくなった。
「ええ、奇遇ですね。速水さんはここで何を?」
そしてこれまた意外な事に、大道寺の方から話を振ってきてくれた。
クラスでは全く口を開かない大道寺が、よりにもよってあたしに話を……。
「あ、あたしはほら、これを買いに」
「……? これは何でしょう?」
「イヤフォンだよ、イヤフォン」
「……?」
手に持ったイヤフォンを見せるも、大道寺は不思議そうに首を傾げている。
まさかこいつ、イヤフォンを知らないのか?
──ああでもそうか。
こういうお嬢様は高級オーディオで音楽を聴いたり、オーケストラの演奏を聴きに行ったりしてるんだろう。
イヤフォンを知らないのも無理はないか。
「これを音楽プレーヤーに繋ぐと、音楽を聴く事が出来るんだよ」
「音楽が……? なるほど、また一つ勉強になりました」
「それより大道寺さんこそ、どうしてコンビニに?」
腕を豊満な胸の前で組んでフムフムと頷いている大道寺に尋ねる。
すると大道寺は一呼吸置いた後、急にあたしに迫って来て──。
「わわっ、な、何を!?」
あたしはあっという間にコンビニの隅っこまで追い詰められてしまった。
真剣な面持ちの大道寺の顔が、フローラルな吐息を感じられるほど、すぐ目の前にある。
「ちょっ、顔っ、顔が近いっ!」
「ああ、これは失礼を」
大道寺が一歩身を引いてくれたので、あたしは深呼吸をして胸の動悸を抑える。
まったく、そんな美形の顔を近づけられたら、同じ女とはいえ照れちゃうだろ。
「十分ほど前、私を迎えに来てくれた車がガソリン切れでエンストしてしまったのです」
「へ、へえ……?」
何の話をしているのか知らないけど、車での送迎とか流石はお嬢様って感じだな。
「でもそれだったら、コンビニじゃなくてガソリンスタンドに行った方がいいんじゃないの?」
「ガソリンスタンドへは伊澄──運転手の方が既にガソリンを貰いに向かっています。私は停車した車の中からこっそり抜け出して、ここへやって来たのです」
イヤフォンを知らないぐらいの世間知らずだから、誤ってコンビニに来たのかと思ったのだが、どうやらそれは違うらしい。
そして先程までの無表情とは異なり、大道寺の顔には得意げな表情が浮かんでいる。俗に言うドヤ顔ってやつだ。
こいつ、こんな顔が出来たんだな……。なんだか新鮮な気分になる。
「てか、こっそりってヤバいでしょ。その運転手の人が心配するんじゃ……」
「少しぐらいなら大丈夫です、多分」
「多分って……適当だなぁ」
あたしが苦笑いを浮かべていると、大道寺はキョロキョロと辺りを見渡して、再び顔を近づけてきた。
「時に速水さん」
「なっ、何でございましょうっ!?」
思わず声が裏返る。
「貴女は〝買い食い〟という行為をご存知ですか?」
「はい?」
何を聞かれるかと思えば、買い食い……?
大道寺の口から飛び出した予想外の言葉に、あたしは目を丸くして聞き返す。
「買い食いというのは、主に親の庇護下にある子供が自分の意思で食べ物を購入し、その場で食す事を──」
「いや、知ってるから説明はいいよ。中学の時とかよく買い食いしてたし」
そう言うと同時、キラキラと瞳を輝かせた大道寺があたしの両手を握りしめてきた。
柔らかいマシュマロのような食感が手の平に伝わってくる。
「うぇ!?」
「やはり思った通り、貴女は他の子達とは違います」
「ななななな、何言って……!? あと顔が近いっ!」
「ああ、これは失礼を」
あたしの動揺を汲み取ったのか、大道寺は手を離して一歩身を引いてくれた。
それから続けて、
「百合ヶ咲女学園の子達は皆、買い食いなんてしないじゃありませんか」
「それはまあ当たり前なんじゃない? 皆お嬢様なんだし、大道寺さんだってそうでしょ?」
「ええ。我が大道寺家では買い食いなんて以ての外。専属のコックが作った物以外は口にする事を許されていません」
げっ、専属のコックとか居るんだ。
夕飯の残り物をそのまま朝食に持ってくるウチとは月とスッポンの違いだな……。
そんな風にあたしが感心していると──。
「しかし貴女は違います。染めた頭髪に着崩した制服。昼食には菓子パンや庶民的なお弁当。それに買い食いもした事があると。……どれを取ってみても、他の子達とは全然違うのです」
こいつ、褒めているのか貶しているのか……。
まあ、悪気は無いだろうから、褒め言葉として受け取っておこう。
「それはあたしが特別──いや、普通だからだよ」
「普通、ですか」
「そうそう、お嬢様でも何でもない普通の庶民。……まあ、そのおかげでクラスから孤立してるんだけど」
自嘲的に笑うあたしに対し、大道寺の眼差しは至って真剣だった。
「……羨ましいです」
「えっ?」
「いえ。それよりも速水さん、どうか私に買い食いのイロハを御教示していただけないでしょうか」
「えぇっ!?」
突然の申し入れに驚いたあたしは、店内であるにも関わらず、大きな声を出してしまった。
店員の視線が痛い。
「いきなりそんな、しかも買い食いなんてまずいでしょ」
「大丈夫です。百合ヶ咲女学園の校則に買い食いを禁じる項目はありません」
「や、そうじゃなくて。大道寺家じゃコックの作った物以外は──」
「大丈夫です。バレなければ問題ありません」
大道寺はそう言うと、イタズラっ子のような笑みを作って見せた。
「……は、はは」
しばらくの沈黙の後、あたしも彼女に釣られるようにして笑う。
「さっきの言葉、そっくりそのまま返すよ。大道寺さんも他のお嬢様たちとは全然違う」
「ふふ、そうでしょうか」
「うん。だってお嬢様は、バレなければなんて言わないし」
まさかあの大道寺の口から、そんな言葉が聞けるとは思わなかった。
それと同時に、あたしの中で彼女に対する親近感が芽生える。
こいつはお淑やかなお嬢様だけれど、百合女に通っている他のお嬢様達とはどこか違くて、どちらかと言えばあたし寄りの人間であると。
「いいよ。買い食いなんてそんなに大層なモンじゃないけど、教えたげる」
──てな訳で、あたしは大道寺を連れて、コンビニのホットスナック売り場の前にやって来た。
「やっぱ買い食いの定番はこれだよね。肉まん、あんまん、ピザまん……唐揚げとかもあるけど、大道寺さんはどれにする?」
「どれも食べた事がありません。初めて見る物ばかりです」
おおっと、そこまで世間知らずだったか。
まあいい。
「じゃあ、食べたいなって思った物を選べばいいよ」
「食べたい物、ですか」
あたしが促すと、大道寺はまるで玩具を前にした子供のような面持ちで、ホットスナックの入っているケースを覗き込んだ。
店員が気まずそうにしてるけど、気にしない気にしない。
「では、これを」
大道寺の指差す先にあったのは、ピザまんだった。
てっきりあんまん辺りを選ぶもんだと思っていたから、少し意外である。
「店員さん、ピザまん一つと肉まん一つ。それからこのイヤフォンを」
「お金は私が──」
「や、奢ってもらうのは気が引けるから割り勘でいいよ」
「割り勘?」
「そう。支払い金額を半々で割るってこと」
「なるほど……勉強になります」
あたし達はキッチリ割り勘で会計を済ませ(もちろんイヤフォン代は自分で払った)、コンビニの前に設置されているベンチに座った。
春の五月とはいえ、夕暮れ時はまだまだ肌寒さが残っており、ピザまんと肉まんの暖かさがありがたかった。
「はい、ピザまん」
「ありがとうございます」
ピザまんを手にした大道寺はしばらくそれを眺め回して、
「これは、どうやって食べたら」
「そのままかぶりつけばいいんだよ。こうっ」
あたしは手本を見せるようにして、肉まんにかぶりついた。
コンビニの肉まんは久々に食べたけど、相変わらず美味しい。
百円でこのクオリティの物が食べられるって、本当に凄いと思う。
「ふむふむ、こうっ」
大道寺も真似をするように、ピザまんにかぶりついた。
次の瞬間──。
「あふっ……!?」
顔を真っ赤にした大道寺が口の中にハフハフと空気を送り込んでいる。
あたしはそんな光景を見て、思わず笑いをこぼしてしまった。
「大道寺さん、もしかして猫舌?」
「んくっ……はい」
辛うじて口の中のピザまんを飲み込んだ大道寺が、恥ずかしそうにコクリと頷く。
もはやそこに高嶺の花の面影はなく、あるのはただ一人の可愛らしい少女の姿であった。
「はしたない姿を……」
「いいっていいって、あたしはそんなの気にしないから。それよりも、口の中火傷してない?」
「大丈夫です、お心遣いありがとうございます」
大道寺はホッと一息ついて、
「──熱かったけれど、それ以上に美味しかったです」
ニッコリと、まるで太陽のような明るい笑顔を浮かべた。
ああ、この笑顔を見ていると、あたしも釣られて笑顔になってしまう。
「…………」
ふと、大道寺の視線があたしの肉まんに釘付けになっている事に気づいた。
本人は気づかれていないつもりかもしれないが、こちらからすればバレバレである。
「肉まん、一口食べる?」
「いいんですか?」
パァァと明るくなる表情を見せられて、断れる人間は居ないだろう。
「うん、いいよ」
「では、私のピザまんも一口どうぞ」
あたしが肉まんを渡すと、大道寺はお返しと言わんばかりにピザまんを差し出してきた。
普通のピザまんなんだけど、こいつの食べさしって考えると、妙に高級に見えてくるな。
「肉まんも美味しそうですね。いただきます」
「あっ、ちゃんと息を吹きかけて冷ましてから食べないと──」
「あふっ……!?」
「あーあ、言わんこっちゃない」
肉まんにかぶりついた大道寺は、相も変わらずハフハフとしていた。
学習せずに同じドジを繰り返すあたりが、なんとも微笑ましい。
*******
「ふう、ごちそうさま」
「ごちそうさまでした」
一口どうぞ、一口どうぞを繰り返している内に、ピザまんと肉まんはあっという間に無くなってしまった。
少し食べたりない感はあるけれど、買い食いってのはそういうもんだろう。
あたしは大道寺の方へ向き直って、
「どう、買い食いは満足出来た?」
「はい、それはもう」
ここまで喜んでもらえたなら、一緒に買い食いをした甲斐があったな。
「それにしても、大道寺さんはどうして買い食いがしたくなったの?」
そのままの流れで、あたしはさっきから心の隅に引っかかっていた質問をぶつけてみた。
すると、大道寺は少し寂しげに笑って、
「私は何も知らないんです」
「へっ?」
あたしは思わず聞き返してしまった。
大道寺華子は百合ヶ咲女学園の入学試験に首席で合格した──と、クラスの連中が話していたのを小耳に挟んだ事がある。
そんな秀才が〝何も知らない〟とは、一体どういう事だろう。
「勉強のやり方を知っていても、それをどう活かすのかは知らない。オーケストラの楽曲を知っていても、世間で流行っている音楽は知らない。食事の作法を知っていても、ピザまんの食べ方は知らない。……私の知っている事はみんな、私の知りたい事じゃないんです」
──ああ、なるほど……。
あたしはさっき大道寺の言っていた「羨ましいです」という言葉の意味を、ようやく理解した。
彼女は大道寺家の跡取り娘という〝特別〟な立場が故に、これまで自分自身で物事を考えたり、やりたい事をやったり、そういう事が出来なかったのではあるまいか。
見たいテレビがあっても、見せてもらえない。
聴きたい音楽があっても、聴かせてもらえない。
食べたい物があっても、食べさせてもらえない。
テレビの面白さ、多種多様な音楽の素晴らしさ、未知なる食べ物の美味しさ。
彼女の立場が邪魔をしているせいで、彼女は自分の知りたい事を知れずにいるのだ。
彼女が唯一知れるのは、両親から必要として与えられた物だけ……。
「そして、社交辞令を知っていても、お友達の作り方は知らない。クラスの子達とはどうにも話が合わなくて、適当に返事をしている内に、気づいたら私はひとりぼっちになってしまっていたのです」
……あたしは大道寺を孤高の存在、高嶺の花だと思っていたが、その実、彼女はあたしと同じだったのだ。
いや、置かれている状況から考えれば、彼女の方がよほど辛いだろう。
「これからもずっと、私はそういう生き方をしていくのでしょう。大道寺家の跡取り娘として生まれた以上、それは納得するしかありません。……でも、せめてたった一度でいいから、自分の知らない事を知ってみたかった。だからこうして、勇気を振り絞って、コンビニまでこっそりとやって来たのです。おかげでピザまんと肉まんの美味しさを知ることが出来ました。どれもこれも、買い食いの素晴らしさを教えてくださった速水さんのおかげです。本当にありが──」
「ちょっと待った、お礼を言うのはまだ早い」
気づくとあたしは、大道寺の言葉を遮ってそんな事を口走っていた。
「大道寺さんはまだまだ知りたい事が沢山あるんじゃないの?」
「それは……もちろんあります」
「だったら、たった一度と言わずに、知りたい事はあたしに聞いたらいいよ。あたしにわかる事だったら、何でも教えたげるから」
「──! それはとてもありがたくて嬉しい話です。でも……」
大道寺は一瞬明るい表情に戻ったものの、すぐにまた俯いて、その面持ちに影を落とす。
「でも、何?」
「……私は大道寺家の跡取り娘ですので、それに相応しい振る舞いをしないと、お父様やお母様を失望させてしまう事に……」
両親なんてどうでもいいじゃん──とは言えなかった。
庶民は庶民なりの生き方があって、お嬢様にはお嬢様なりの生き方があるのだ。
そこに自分の価値観を押し付けて大道寺を諭すのは違うと思う。
だから、あたしのかけるべき言葉は──。
「バレなければ、問題ないじゃん」
「えっ」
「ほら、さっき大道寺さんが言ってたヤツ。買い食いをしようが何をしようが、バレさえしなければ両親を失望させたりはしないでしょ? もちろん犯罪とか悪い事はやっちゃ駄目だけど」
あたしがそう言うと、大道寺は暫くキョトンと目を丸くして、
「そ、そんな……いいんでしょうか……」
「いいんだよ。知りたい事を知ろうとするのは悪い事じゃない」
「で、では、これからも……速水さんに知りたい事を御教示頂いてもよろしいのですか?」
「うん、あたしに教えられる事だったらね」
「速水さん!」
「わぁ!?」
話の最中、感極まった様子の大道寺が突然あたしの両手を握りしめてきた。
その反動で座っていた木製のベンチがギシリと音を立てて揺れる。
そしてあたしの両手を暖かく包み込むのは、相も変わらずフワフワとした、マシュマロに包まれているような心地良い感触。
「私、私……これほど嬉しい想いをしたのは生まれて初めてです!」
「え、ええ……?」
大道寺は困惑しているあたしの目を、正面から真っ直ぐに見つめて、
「どうして貴女は、そこまで私に良くしてくださるんですか?」
その質問に、あたしはハッとさせられる。
逆にどうして、あたしは大道寺に手を差し伸べたんだろう。
気づいた時には身体が、いや、口が勝手に動いていたのだ。
「それはほら、クラスメイトだから?」
「クラスメイト……ですか」
咄嗟にそう言ってみたが、当の大道寺は納得がいっていないような表情を浮かべている。
気持ちはよくわかる。言ったあたし自身も、納得がいっていないから。
仮に大道寺以外のクラスメイトと同じ状況になっていたとしても、あたしはきっと手を差し伸べたりはしなかったはず。
「や、ごめん、適当に言った。実の所、あたしにもよくわからないんだよね。……大道寺さんの寂しそうな顔を見たくなかったから──ってのは、少し気持ち悪いかな」
「いいえ、いいえ。ちっとも気持ち悪くありません」
大道寺が首を大きく横に振りながら否定の言葉を放つ。
あたしの手を包むマシュマロに、より柔らかい力が加わったように感じた。
「むしろ、嬉しくてたまらないぐらいです。お父様やお母様や執事以外に、そこまで私を想ってくれる方が居ようとは……。私は貴女を、何とお呼びしたらいいのでしょう。先生? 師匠? 神様?」
「それは身に余りすぎる!」
どんどんとグレードが上がっていく呼び名に、ついツッコミを入れてしまった。
「普通に、名前で呼んでくれたらいいよ」
「名前というと、飛鳥さん、ですか?」
「うん。それから同い年なんだし、その堅苦しい敬語と、さん付けも要らない」
「いえいえ、敬語は私に染み付いた方言のような物ですので、取ろうと思って取れる物ではないのです」
そうか、それじゃあ無理に取ろうとするのはかえって悪いな。
「しかし、失礼ではないでしょうか。飛鳥さんだなんて、まるで、お友達にするような呼び方──」
「──!」
大道寺がハッと言葉を詰まらせて、あたしの両手から手を離した。
同時にあたしの心臓も、ドキンと跳ね上がる。
「あ、あの……私達って、その……お友達、なのでしょうか」
友達、友達か……。
全く意識していなかったから、返す言葉に逡巡してしまう。
「どう、なんだろ」
「もし、飛鳥さんさえよろしければ、私とお友達に……。い、いえっ、嫌でしたら──」
「いっ、嫌じゃない! 嫌じゃない……けど、大道寺さんはあたしなんかと友達になってもいいの? ほら、家とか……」
「それこそ、バレなければ、ですよ。飛鳥さん」
「!」
思わぬ意趣返しを食らってしまった。
驚くと共に、何だか嬉しくなる。
「じゃ、じゃあ……喜んで友達に……」
「はいっ、是非!」
あたしが照れくさそうに頬を掻きながら言うと、大道寺は今日で一番の笑顔を見せた。
「私、お友達が出来たのは貴女が初めてです。不束者ですが、何卒よろしくお願い致します」
ベンチに両手をついて、ペコリと頭を下げる大道寺。
お前は一体いつの時代の人間だ。
「そんな大袈裟な……。とはいえ、あたしもこの学校で友達が出来たのは初めてだから嬉しいよ。よろしくね、大道寺さん」
まさか、気の合わないお嬢様ばかりが集まる百合女で。
それも、あの大道寺華子と友達になれるなんて──少し前のあたしだったら考えもしなかっただろう。
しみじみ、そんな感慨に浸っていると。
「あのう、飛鳥さん」
「ん?」
大道寺が頬を膨らませて、あたしの顔を覗き込んできた。
何やら不満のある様子だが、拗ねている顔も拗ねている顔で可愛らしい。
「その“大道寺さん”という呼び方は、少々よそよそしさを感じてしまいます。私達、お友達になったのですから……」
おっと、あたしとした事が。
確かに些か他人行儀だったな。
これじゃあこいつが拗ねるのも無理はない。
「ああ、そっか。ごめんごめん」
あたしは両手を合わせて軽い調子で謝りつつ、
「そしたら、なんて呼べばいいかな? 大道寺? 華子? それとも、華とか?」
「それです!」
「うわっ!」
そこまで言ったところで、大道寺は両目をクワッと開いて身を乗り出してきた。
驚いたあたしは思わず仰け反ってしまう。
「華! 華というのは、いわゆる渾名のような物でしょうかっ」
「え、ああ、うん。そうだけど、もしかして嫌だった?」
「とんでもない! 私、今まで渾名で呼ばれた事など無かったものですから、ついつい興奮してしまって……。是非とも華と呼んでいただければ嬉しいです」
凄いな。あたしからしてみれば普通の事でも、こいつにとっては何から何まで新鮮な事なんだ。
ともあれ、喜んでもらえるのならそう呼ばせてもらうとしよう。
「わかった。それじゃあ改めてよろしく、華」
「ええ、ええ! よろしくお願い致します、飛鳥さん」
春風の吹く夕焼けの中、こうしてあたしと華は友達になったのである。
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