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隅野も晴彦も、危うくその場で力尽きるところだったが、
「私が通りかかって良かったね! 今日、たまたま人がいなくて、散歩してたんだよね」
あっけらかんと笑う白い手に引っ張られて、なんとか浜辺に辿り着いた。
隅野は砂浜に這っていきながら、後ろを振り返った。ゆったりと波に揺れているのは、上半身は人間の女性、胴から下は銀色の魚の尾が生えた、いわゆる人魚であった。
「渚、ありがとう……」
浜辺に大の字のままで礼を言う晴彦に、渚は海からひらひらと手を振りまた笑う。
「良いよぉ」
その渚の手首に、男物の完全防水腕時計が巻かれているのを見つけて、隅野は目を覆った。
「さっきの子、晴彦の新しい彼女?」
「ちょうど、別れたけどね」
三人は、見るともなく沖を眺めた。
光の柱は既に跡形もない。満天の星空、漆黒の海、寄せては返す波の音。全てが元通りだった。
「あ、待って」
唐突に、渚が沖に向かって泳ぎ出した。先程までの隅野と晴彦の決死行とは異なり、美しくも力強く、すいすいと海の奥へと進んでいく。
渚の目指す先では、金盥が一つ、波の上で寂しく揺れていた。今となっては、その盥は、あかりが先刻まで地球にいたという唯一の痕跡だった。
渚は盥を回収すると、あっという間に砂浜に戻って来た。
「中に何か入ってるよ」
盥を受け取った隅野は、言われた通り、中に転がっていたもの拾い上げた。
指で摘まめる大きさの小石だ。月の光にかざしてみる。
「晴彦、これ」
まだ地面に転がっている晴彦に、小石を差し出す。
手を伸ばして受け取った晴彦は、ああ、と吐息を漏らした。
黒い石だ。中に、星のきらめきに似たかすかな光が浮いている。まるで、夜空が零した涙のような石だ。
「帰れたんだな、本当に」
隅野は清々しい気持ちで敗北を認めた。
隅野の知性の負けである。隅野は脳内に、この世には人魚も宇宙人も、そしてそれらを惹きつけてやまない、底なしのお人好しも存在すると、一つの事実を登録した。
人間を信じることができるかの命題は、未だに保留されていた。しかし、少なくともここに、晴彦を信じた三者が集結したというのは、紛れもない真実だった。宇宙人のあかりと、人魚の渚と、リサイクルショップに捨てられた旧型アンドロイドである隅野が、その証人だった。
「お疲れ」
と声を掛けようと晴彦を見て、隅野は言葉を飲み込んだ。
晴彦は無言だった。水を吸った砂に額を預け、黒い小石を強く握ったまま、肩を震わせていた。
「別れたとはいえ、妬けちゃうなぁ」
渚が小さく笑う。銀色の尾で水面を軽く叩くと、飛沫がきらきらと舞った。
隅野は倒れている晴彦の隣に腰かけた。
もうしばらく、友人の隣にいようと思っていた。晴彦のためというより、隅野がそうしたかった。晴彦の嘆きには、離れがたい美しさがあった。嘘も利己も有益性も関係ない、ただ在るだけの星空のようにシンプルな美しさだ。
海の真上では星が無数に瞬いていたが、幾ら待っても、もう何も降りてこなかった。隅野は波の音と晴彦の呻きを聞きながら、いつまでも夜空を眺めていた。
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