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ふと笑い声が途切れた。あかりが息を飲んで固まっていた。
先程聞いたものに似た、ぎいぎい、という奇妙な音が、あかりの頭上の金盥から聞こえていた。
晴彦と隅野は鋼のごとく硬直して、あかりを凝視していた。あかりは目を閉じ、彼女にしか分からない信号に耳を澄ませる。
音が止まった。あかりが金盥を下ろして、項垂れる。
消え入りそうな声で呟いた。
「あと五分で来るって」
隅野は晴彦に目をやった。
鏡を下ろした晴彦は、大きく長く息を吐いていた。
空いた両手を広げる。隅野の目の前で、俯いたまま動こうとしないあかりを、腕の中に抱きしめた。
「寂しいけど、仕方ない」
「晴彦君」
「あかりちゃんのこと、本当に好きだけど。でも、あかりちゃんがここにいるために病気になるなんて、駄目だ。あかりちゃん、地球人で言うとまだ十歳くらいって、自分で言ってたね。自分の星に帰って大きくなったら、俺より格好良い、素敵なひとが見つかるよ。体も良くなる、きっと幸せになれる」
「晴彦君」
晴彦の肩越しに聞こえるあかりの声は、嗚咽に変わっていた。
「晴彦君、あのね」
「元気でね」
「ごめんね、私……」
あかりが消え入りそうな声で告白した。
「ごめん、私、嘘ついたの」
隅野は、急激に体が冷えていくのを感じた。
鳴り響いていたエラー音が、ぱたりと止んだ。隅野の論理的思考回路は、やはり、と高らかに哄笑していた。
やはり、人間は信じるに値しない。その結論が上書き更新されるのは何度目だろう。
嘘を吐いたあかりへの怒りも、騙された晴彦への嘲りもなかった。二人を祝福しかけていた隅野は、自身の愚かな人間的思考を冷笑していた。
その時の晴彦は、あかりの肩を掴んで鋭く問いかけていた。
「何の嘘ついたの?」
嗚咽の間からあかりが答える。
「宇宙船、ここに、来ないの」
「じゃあどこに来るの!」
あかりは後ろめたそうに、晴彦の背後を指差す。
「あそこ」
晴彦と隅野は、恐る恐る振り返った。
二人の背後にあるのは、波の音を絶え間なく響かせる暗い海である。
先刻まで真っ暗だった沖には、忽然と、白い光の柱が現れていた。撮影用ライトと鏡で作った白い柱に似たものが、そこでは反対に、星空から海に向かって下ろされていた。
「いつ来るって?」
「あと五分……」
「急がないと!」
晴彦は慌てだした。走り出そうとして立ち止まり、文字通り右往左往し始める。
隅野は半ば呆然としたまま疑問を挟んだ。
「泳げば?」
「だめだ。あかりちゃんには、水は毒なんだ。でも、水に濡れないで海のど真ん中に行くなんて……」
万事休す。晴彦が頭を抱える。
だがその隣で、隅野の演算機能はフル回転を始めていた。辺りに視線を巡らす。小型発電機、撮影用ライト、大きな鏡、そして、金盥。
一つの数式が目の前に閃く。
「あかりちゃん、体重は?」
「えっ。四〇キロ……」
「いける」
隅野は泣きじゃくるあかりの手を引いた。波が来るぎりぎりのところに金盥を置いて、そこに小柄なあかりを座らせる。
「動かないで」
素早くシャツを脱ぐと、短パン姿で、隅野は盥を海に押し出し始めた。唖然とするあかりを載せた盥と共に、隅野は海へと突っ込んでいく。海水に触れた盥は半ばまで沈んだものの、ぎりぎり海面に浮いていた。計算通り、浮力の方が強い。これならば、あかりを濡らさずに押していける。
自身の理性と眼前の状況、どちらを信じれば良いか、隅野はまだ決めかねていた。だが隅野本人よりも、隅野の計算能力の方がよほど冷静な答えを出していた。
とにかくあかりを光の柱まで送り届ける。後悔はその後でも出来る。
呆然としていた晴彦も、はっと我に返った。猛烈な勢いで海に走り出す。隅野に並ぶと、金盥に手をかけ、共に沖を目指す。
二人の腰まで、胸まで水が来る。怯むことなく、足で水底を蹴って進んでいく。
晴彦は諦めなかった。なので、隅野も同様にした。岸に押し戻そうとする波に逆らって水を掻く。無我夢中で光の柱を目指す。
しかし、三人の目の前で、天から降りた光の柱はどんどん短くなっていった。目に見えない何かが海面に近付いてきている証だった。
「晴彦君、やだ、私、帰りたくない」
「だめだ」
「何で? 私、残る! 病気でも良い、晴彦君と一緒にいる!」
「だめだ!」
晴彦は譲らなかった。口に入った海水でぼこぼこと泡音を鳴らしながら、それを飲み込んで叫んだ。
「あかりちゃんの命より大事なものなんてないんだよ」
それでも、もう刻限だ。光は、既にあかりの背丈よりも短い。
隅野は白い柱を睨んだ。水底にもついに足が付かなくなり、沖を目指す速度は一気に落ち込んでいた。幾ら計算機能を回しても、光に間に合うための有用な案が何も出てこない。
駄目だ、と晴彦が狂気じみた叫びを上げそうになったそのとき、
「晴彦、どいて!」
波の合間から女の声がした。
「盥の子、一気に行くよ、捕まって!」
それを聞いた晴彦は、驚くほど素直に金盥から手を離した。更に隅野の手を掴んで、無理やり海中に引きずり込む。
咄嗟のことに隅野は晴彦に抗えず、晴彦と共に頭まで海に沈んだ。何が起きたかのかと、慌てて海面を仰ぐ。
その時、隅野の真上を、何かが素早く通り抜けた。
隅野は目を瞠った。己が見たものを信じられなかった。
二人の頭上を通ったのは、水を縫って進む、銀色のうろこを纏った大きな魚の尾だった。そして魚の尾の上には、人間の女体が生えていた。
女体から白魚のような手が伸びて、盥の縁に掛かる。
隅野は慌てて海面に顔を出した。その頃には、魚の尾は潮目に乗り、盥はとっくに沖へ出ていた。
今にも消え入りそうな光の柱に、金盥が、すんでのところで滑り込む。
あかりは盥の縁から身を乗り出し、大きな声で叫んでいた。ぎいぎい、という激しいその音が何を意味するのか、隅野には分からない。白い光の中、遠目にも分かるほど大粒の、夜空の星のような涙を、ぼろぼろと零している。
波の間から晴彦が顔を出した。隅野には後ろ頭を向けていたが、その声ははっきり聞こえた。
「あかりちゃん、元気で!」
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