【おぼろの桃園】いざ、桃園へ

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◇  山中に霧が立ち込めている。まるで雲の中を彷徨っているみたいだと思う。日の出前からすたすたと歩き続けているけれども、前も後ろも、右も左もおぼつかない。今、何刻ごろだろう。 「本当にあるのかな。『おぼろの桃園』って」  山中をやみくもに進む少女がそう言う。肩の辺りでつややかな黒髪を切りそろえ、紅の(あこめ)の上に薄物の白い汗衫(かざみ)を軽やかにまとう、美しい童女である。しかし、恐ろしいほど整った顔立ちも、彼女のどこか抜けた、素朴な声色と合わさると、不思議と親しみを感じさせる。名をわらびという。  少女の隣には少年がいた。浅葱(あさぎ)水干(すいかん)に、太刀(たち)を身に付け、馬の尻尾のように髪をひとつにまとめている。少女と違い、こちらは目が細い以外にはとりたてて特徴のない少年だ。  この少年、ひき丸は「あるさ」とのんきに答えた。 「順序は間違いない。都の西の山に入り口があるんだ。ただ、そこに辿り着けるかは五分五分だなあ。選ばれた者、それも人生に一度きりしか入れないらしいから」 「だれに選ばれるの」 「ここは山だから……山神さまかな?」  要領が得ない。ひき丸にもよくわかっていないのだ。 「とにかく、おまえの思うように歩きつづけろ。俺はわらびの冴えたカンを頼りにしているからな」 「わかった」  ひき丸が全面的にわらびへの従属を示したので、わらびはいつになく奮起した。踏み出す足の一歩も力強くなる。  真っ白に煙る木々や、苔むした岩を器用に避けていくうち、剥きだしの山肌をくりぬいた大きな洞穴を見つけた。覗くと、遠くから光が漏れている。 「あそこかな」 「そうじゃないか。だが、途中はだいぶ暗そうだな。……おまえ、この中でも迷子にならないよな? はぐれないように手でも繋ぐか?」  一本道でどうやって迷えるというのだろう。まるで小さな妹の手を引こうとする兄の言い草である。失礼だ。  わらびは、少年の手をぐいと引っ張った。 「ひき丸がはぐれないように手を繋いであげるよ」 「なんでそうなるんだよ」  ひき丸は含み笑いをしながら、されるがままになる。  洞穴は互いの顔を確認できぬほど暗い。遠くの小さな光を目指す。  慎重に歩を進めていくと、やがて視界が広く開けた。眼下に広がる色鮮やかな景色に目を奪われる。  青い空の下、深い山々の間の一角で、桃の花が咲いていた。桃色の領巾(ひれ)が長く太くたなびいているようではないか。まさに満開、春である。  ところせましと生えた桃の木々の間には、蛇行した小川がさらさらと流れている。なんと清い水だろうか。  奇麗(きれい)、と少女は感嘆した。
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