【おぼろの桃園】いざ、桃園へ

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「実は昔、宮様がとっておきの女人とここへ駆け落ちしに来たらしいぞ」 「宮様、大胆だね」  わらびは、失せ物探しの依頼主である貴人の顔を思い出す。この宮様というのは、世間で橘宮(たちばなのみや)と呼ばれている人だ。皇族であり、天人(てんにん)のひとりだが、音楽や絵などの関心が深い美男子として評判の御仁だ。隣の少年、ひき丸の主人でもある。ひき丸は橘宮の家に仕える若侍なのだ。 「でも、宮様ならやりそう。楽しんでそうだよ」  わらびに桃の枝を探すように申し付けた時も、女人の心をとろかす微笑だったではないか。 『そこらの桃ではいけないのだよ。あれがいいのだ。あの、『おぼろの桃園』にある桃の枝を、届けておいで』  夜中に叩き起こされてねぼけ(まなこ)のわらびに、脇息にもたれてくつろぐ橘宮はおっとりと言っていた。明日でもいいじゃないかと思ったわらびは、大あくびしながら聞いていたけれど。  ひき丸は「ちょっと違うな」と否定した。 「言ったろ。とっておきの女人だって。俺が思うに……宮様は、今でも忘れてない。だから俺たちをこの桃園へ行かせたんだよ」 「だったら宮様に頼まれた届け先の、五井(いつい)の姫君が、そのとっておきの人ということ?」    橘宮は今でこそ年を経て落ち着いたものの、元が大層女人関係の華やかだった人なのだ。とっておきの女人と言われてもぴんと来なかった。 「まあな。大墓(おおはかの)国に下向(げこう)する話を聞きつけたんだろう。今生の別れになるかもしれないから、何かせずにはいられなかったんだよ」  ふうん、とわらびは思う。  今回、《失せ物探し》として頼まれたのは「おぼろの桃園」に咲く桃の枝を探して、ある女人に届けることだった。昔の恋人への贈り物にするらしい。橘宮は、どんな思いをこの桃の枝に託しているのだろう。
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