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牛車の後ろ口に垂れた御簾が内からめくれあがり、白檀の匂いが鼻につくほど漂う。御簾から現れた白粉の濃い女が扇で顔の下半分を隠しながら刺々しく答えた。
「奥様へ便りをよこす方がいるとは思えませんが」
「……こちらを預かって参りました」
大事に抱えて来た桃の枝を差し出す。橘宮からは、文の類は託されておらず、単に枝だけ渡した格好になる。
ただ、ふと思い出した。伝えてこいと言われた言葉があったっけ。
「『あかざりし桃の花』とお伝えください」
「は?」
「『あかざりし桃の花』。そういう言伝です」
女房の半分しか見えぬ面に嘲りの色が見え隠れした。厭な感じだ。
「ほほほ。おかしなことを言う女童だこと」
「お伝えください」
受け取ろうとしない女房へ、さらに桃の枝を突き出す。
女は舌打ちをした。桃の枝をしぶしぶ受け取ると、御簾の奥へ向く。ひそひそと話し声がし、ぎゃあぎゃあと赤子がぐずつく声もする。
その時、牛飼童へ話をつけたひき丸がわらびの隣に来た。
「どうだ?」
「わからない。……ふられちゃったかな」
「不吉なことを言うな。お返事ぐらいはくださるはずだ。そうじゃないと宮様が気の毒すぎるぞ」
「そうだね」
やがて女房が御簾の隙間から現われた。青白い手から何かを滑り落とす。
「ご苦労でした。もう結構です」
牛車はがたがたと音を立てて去っていく。その時、牛車からだれかが叫んだ。
「千代にかざせよ、桃の花!」
女の声が尾を引くようにその場に残る。
わらびは、牛車から落とされたものを拾い上げた。
裸の枝。無残に花と蕾ごとむしりとられた桃の枝が二本ある。
「『千代にかざせよ、桃の花』だって。意味はわからないけれど、やっぱりふられちゃったのかな」
ひき丸は気の毒そうな顔になる。おおかた、宮様がかわいそうだと思っているのだろう。
ひとまず橘宮の邸へ戻ることにした。
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