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橘宮は説明する。
曰く、桃源郷には戦乱や争いがない。桃林に囲まれた美しく豊かな土地だという。住んでいる者も戦を知らない。外とは隔絶された異界の地で彼らだけは幸福に暮らしている。
昔、ある漁師がここに迷い込み、帰りにふたたび戻ってこられるよう印をつけたが二度と辿り着くことができなかった。
「いったん桃源郷を離れた者にもう逃げ場所はないのだよ。耐えて、諦めるほかない。せめて相手が幸せであれと遠くで祈る。だからわしは今も独りなのであろうな」
五井の姫君は結婚をし、子を産み、母となった。夫はめでたく国司に任じられ、共に任国地へと今日旅立った。橘宮がもう手出しできる相手ではないという。
「さびしいんだね」
わらびが言えば、橘宮は曖昧に笑う。
「男子がさびしいからと言って泣くわけにはいかぬ。だが、おまえたちのおかげで気は済んだ。よくぞ成し遂げてくれた。おまえたちなら、と思っていた反面、実は半分諦めていたのでな」
「このひき丸、宮様のためならどのような命でも全力を尽くす所存です!」
ひき丸は勢い込んで応えた。隣の少年がいきいきした顔をしているのを横目に、わらびはまたか、と思う。
ひき丸は主人が好きすぎるのだ。傾倒していると言っていい。主人の悲しみは我が悲しみ、主人の幸せは我が幸せだと本気で考えている節がある。わらびには忠誠心が欠けているので、よく理解できない。
「せっかくだ。おまえたちにはこの枝を与える。桃は古くから破邪の力があると言われている。宮中の大晦日に行われる大祓で使う弓も、桃の枝から作るのだ。まして、それはかの《おぼろの桃園》にあった桃の枝。役に立つ時もあるやもしれぬ。受け取りなさい」
「ははっ、ありがたき幸せ!」
ひき丸が喜んで答えた。
少年少女は仲良く桃の枝を一本ずつ受け取る。失せ物探しの依頼が終わり、下がれと言われる頃合いになって、あのひっかかりのある言葉を口にした。
「『千代にかざせよ、桃の花』ってどういう意味?」
すると、橘宮の顔からごっそりと表情が抜け落ちた。
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