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宮様、乱心する
カラン、と盃が板敷に落ち、こぼれた酒で袴がびっしょり濡れてもまるで目に入っていなかった。
「な、なぜ……」
橘宮の声が震える。
「まさか、姫が申したのか。『千代にかざせよ、桃の花』と」
「うん」
そうか、と橘宮は噛みしめるように呟く。物憂げに息を吐くが、それで胸中が落ち着いたわけでもないだろう。血の気が引いた面はそのままだ。
「姫はどんな様子であったか?」
「知らない。見てないもの。応答も女房がしてた」
「姿も、まったくか?」
うん、とわらびはまた頷く。
「声だけだよ。叫んでいたみたいだった」
今から思えば、切実な響きもあったかもしれない。
わらびが話せば、男の顔色がますます沈んだ。両手で顔を覆って、うんともすんとも言わなくなってしまった。
「わらびは何か悪いことを言ったのかな」
「悪いことなんてないだろ。ただ、俺たちの知らないことを宮様が知っているだけだろうさ」
「何だろうね」
「無遠慮に聞くのは無しだぞ。おまえはそういうところがあるからな」
「じゃあ待つ」
「待つなよ。宮様の気持ちを慮ってそっとしておくべきだろ」
ひき丸に腕を引かれたところで、「聞こえておるぞ。待ちなさい」と止められた。今にも死にそうな顔つきの橘宮がゆらりと立ち上がる。
「おぼろの桃園で誓いを立てたのだ。互いの立場が変わろうとも、心はともにいようと、二人だけがわかる合言葉を決めた。
『あかざりし、桃の花』とわしが言えば、『千代にかざせよ、桃の花』とあの姫が言う。そういう誓いだ。姫はきっと今もわしを忘れていない。心は通じている。だがわからぬのは、あの桃の花をむしって捨てたわけだ。初めはすっきりと未練を断ち切らせようとして捨てたのだと思っていたのだが、どうも違うように思えてくるのだ。おまえたちはこれをどう読み解く?」
ひき丸はやや悩んでから「わかりません」と素直に答えた。橘宮の目がわらびに向く。わらびは告げた。
「逢いにいけばわかるよ」
「あのな、宮様は逢えないからそうおっしゃっているんだぞ。いくら天人であらせられても、しがらみがたくさんあるんだぜ」
ひき丸が呆れたように言うが、わらびは納得しなかった。
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