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プロローグ
「またあそぼうね」
「また明日なー!」
1945年8月1日の夕方、東京都八王子市のとある空き地に、元気な声がこだましました。
現在、この街は東京中心部への通勤圏となっていますが、この時代はのどかな農村の一つでした。
この頃の日本は、太平洋戦争による爆撃によって既に焼け野原となってしまった地域も多かったのですが、ここはまだ大きな被害は無く、古くからの住人の他に、3月の東京大空襲から逃げてきた人たちも多く居ました。
私、春子は、高等女学校3年生でした。ところが学校は3月に休みとなり、その代わりに国からの命令で、浅川駅(現在の高尾駅)近くの工場で飛行機の部品を作っていました。
慣れない手つきで何かの部品をたくさん作りました。しかし、それが何なのかは教えてもらえませんでした。
食事も白いご飯などは出ず、おもゆというおかゆを思いきり薄めたような汁物になにやら入れたものが1日2回だけ。それで朝から晩から働きました。仕事が終わると友達と泣きながら互いに慰めあっていました。
先月下旬にやっと動員期間が終わった頃には心身ともにクタクタに疲れ果てていました。しかし数日後にはまた、別の工場に行くことになっていました。
この日は、そんな中の束の間の休息でした。久しぶりに友人と会ってお話しをしたりしていました。
しかし昨日、米軍機が爆撃を予告するビラを撒いており、少しの不安はありましたが、それでも私たちは休日を楽しんでいました。
その時間もあっと言う間に過ぎた夕暮れ時、みんなで帰路につくと、久しぶりに年下の幼なじみである勇くんに会いました。私を見るなり、彼の方から声をかけてくれました。
「はるねえちゃん、久しぶり」
「勇くん、久しぶりね。元気だった?」
「もちろん!」
彼は国民学校初等科5年。もうすぐ彼も動員される歳になりますが、戦況がさらに悪化していけばそれより早く勤労に借り出されるかもしれません。ラジオや新聞は「日本は勝っている」と言っていましたが、それに疑いの目を持つものも多くいましたし、実際、学生が工場などに動員される年齢は、年を追うごとにどんどん下がっていました。
しかし、それを言おうものならすぐに憲兵につかまってしまいますから、みな黙っていました。
そんなこともあってか、彼は日本の勝利を純粋に信じていました。
「ねえちゃん。俺、大きくなったら兵隊さんになって、お国のために敵をたくさんやっつけてやるんだ。そしたらねえちゃんにおなかいっぱいご飯を食べさせてあげるからね」
「ふふ、楽しみにしているわ」
このとき心が少しだけどきりとしたのを覚えています。けれど、この時代は恋愛は不純なものとされていました。ですから、かすかな気持ちは心の底にとどめておいて、私は家路につこうとしました。
そのとき、夕暮れの空に流れてゆくお星様が見えました。みんなでお星様を見つめながら、明日はいいことがありそうだと笑いあいながらそれぞれの家に帰りました。
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