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 いじめ【苛め/虐め】 肉体的、精神的に自分より弱いものを、暴力やいやがらせなどによって苦しめること。  辞書によると、いじめとはそういうものらしい。  ここに書かれている要件の全てを満たすことがいじめの必要条件だとするなら、彼、向坂柊人(さきさかしゅうと)が級友から日常的に受けている仕打ちは、果たしていじめにあたるのだろうか。  例えば昨日。教室にあるはずの彼の机と椅子が、窓の外にほうり捨てられていた。  一昨日。学校脇にある深さ二メートルの側溝に突き落とされた。  一昨々日。体育倉庫でさんざん殴られ小突かれたうえ、マットの下敷きになり、その上に跳び箱を積み重ねられて数時間放置された。 そして今日。彼はクラスメートの男子数人に取り囲まれ、屋上に張り巡らされたフェンスの外側を一周するよう強制されている。  もちろん、これらの行為にはなんの原因も必然性もない。彼が受けている仕打ちは「暴力やいやがらせ」以外の何物でもない。その点だけみれば、彼は「いじめ」に十二分に相当する仕打ちを受けているといえる。 ――だが。 「ほんじゃ、ミッション遂行の前に、昨日書いてこいって言っといた手紙、出、せ、よ」  柊人を取り囲むように立っている男子生徒のうち、ニキビだらけの額が華々しい短髪の男子が顎をしゃくると、うつむいていた柊人はブレザーのポケットから一枚の紙片を取り出した。 「お、感心感心。ちょっと見せてみろよ」  ニキビ男が柊人の手から紙片をひったくると、残る二人、微妙なイケメン風の茶髪男と堂々たるガタイのツンツン頭も額を寄せてそれを覗き込む。  紙片に書かれた文字を見た途端、ニキビ男とツンツン頭は不服そうに眉根を寄せた。 「なにコレ、『さようなら』って……おまえさあ、遺書なんだから、もうちょっといろいろ書くことあんだろ? あっさりしすぎだっつーの」 「だいたい、誰にあてて書いてんだよこれ。宛名も何もねーじゃん。遺書も満足に書けねえとか、マジでいい加減にしろよてめえ!」  ツンツン頭は吐き捨てるなり柊人の襟をつかみあげた。ツンツン頭は、高一という年齢にそぐわない立派な体格をしている。柊人も背だけならツンツン頭と同じくらい高いが、体の厚みがまるっきり違う。勢いで振られた柊人の背中が、黒い鉄製フェンスにたたきつけられて高い音を立てた。  ツンツン頭は唇をひん曲げて、至近距離にある柊人の顔を睨めまわした。 「つかさあ、なんでおまえ、そんな前時代的なメガネかけてんの? マジきめえしイラつくんだけど」  確かに向坂柊人はメガネをかけている。その傷だらけの分厚い眼鏡が目元を覆い隠しているために、彼の表情は非常にわかりにくい。ツンツン頭は、自分がこんなにイラつくのはこのメガネのせいだと思っていた。なにをやっても、どんなイジメを仕掛けてもいまひとつ反応が薄いようにしか感じられないのは、たぶんこの分厚いメガネに隠されて表情がわからないせいなんだろうと、イライラしながら唇の端をひん曲げた。 「ちょっと貸してみろよ。どんだけ度がキツイか見てやっからさあ」  ツンツン頭が柊人のメガネに右手を伸ばす。親指と人差し指がツルをつまもうと丸まった瞬間、柊人はほんの少しだけ顔を動かしてツルの位置をずらした。指同士が空しく触れ合い、避けられたことに気付いたツンツン頭は眉根を寄せると、もう一度ツルをつまもうと指をのばす。再び微妙に位置をずらして紙一重でその指をかわされたツンツン頭が、血走った眼を見開いて何か言いかけた時だった。 「昼休み終わっちゃうよ、前川、そんなんどうでもいいじゃん。遺書もとりあえず書いてもらったし、さっさと屋上一周してもらおうぜー」  イケメン風男はめんどうくさそうにそう言うと、目元を覆う茶色い前髪をさらりとかきあげた。ニキビ男は慌てて腕時計に目を向ける。時計の針は、すでに一時を回っていた。 「やっべ……次の授業、訓練じゃん、遅れっとまた張り飛ばされるし。前川はそのへんにしておけって。向坂はさっさと柵の外に出ろよ」  前川が渋々襟首をつかんだ手を放すと、柊人は促されるままスタスタと柵に歩み寄り、軽い身のこなしでそれを乗り越え、次の指示を待つかのように首を巡らせて三人を見た。  三人は気圧されたように言いかけた言葉を飲み込んだ。  慌てて柊人の置かれている状況を再確認する。  柊人がこれから歩く鉄柵の外側は幅三十センチあまりで、右側には何の覆いもない。ここは五階建ての校舎の最上階、高さ二〇メートルから転落すれば間違いなく死ぬだろう。鉄柵に手を添えていれば一周するのは不可能ではないだろうが、それにしたってこの高さだ。さすがの向坂柊人でも、恐怖を覚えずにはいられないはずだ。そう確信して企画したのに、この拍子抜けするほどの無表情は一体どういうわけだろう。予想外の事態に、三人は軽く混乱した。 「……柵から手を離せよ」  前川が地を這うような声音でそう言ったので、あとの二人はさすがに驚いた様子で前川の顔を見直した。前川は額にうっすら汗をにじませながら、上ずった声で言葉を継いだ。 「柵を持ってたら簡単すぎるだろ? 柵に一度でも触れたら、始めからやり直しだからな」  ニキビ男は、おずおずと柊人に目線を移した。柊人はしばらくは無言で前川を見ていたが、おもむろに柵を掴んでいた左手を離すと、右足を踏み出し、歩き始めた。まるで廊下でも歩いているかのような気軽さだった。だが、ここは紛れもなく地上二〇メートルの屋上だ。もし少しでも強い風が吹いたら、もし集中が途切れてバランスを崩したら、たちまち彼の体は中空に投げ出されてしまうに違いない。心臓を締め付けられるような圧迫感を覚えたニキビ男は、思わずごくりとつばを飲み込んだ。  前川は額に汗を浮かべ肩で息をしながら、それでも柊人の左手が柵に触れないかじっと注視していた。少しでも手が触れようものなら、やり直しを命じるつもりだったのだ。命じられた瞬間、柊人の顔にどんな表情が現れるのか、それがどうしても知りたかった。その無表情な顔に何らかの表情が現れることを――たとえそれが恐怖ではなく、単なる落胆であっても――強く期待していた。  だが、そんな前川の期待もむなしく、すでに柊人は平然と半周を終えていた。歩む速度は先ほどから全く変わらず、動揺のかけらもみられない。このままでは柊人はなにごともなく一周を終え、訓練の時間に遅刻することもなく、またいつものように平然と授業に戻っていくに違いない。そんなことは許さないと前川は思った。柊人に恐怖を与えられなければ、自分たちはまた負ける。これ以上の負けは許されない。なんとかして屈服させなければ、泣いて謝らせなければ気がすまなかった。  その時、歯噛みする前川の足元に、なにかが転がってきた。  それは古びた硬球だった。  前川はそれが転がってきた方向に目を向けた。給水塔のフェンスに寄り掛かり、腕を組んで柊人を眺めやっていたイケメン風男は、視線に気づいてちらりと前川に目線を流した。 「坂本……」  前川はその目線に後押しされたかのように、ゆっくりと足元のボールを拾い上げた。首を巡らせ柊人を見やると、軽快な歩みですでに四分の三ほどを回り終え、最後の直線にさしかかるところだった。前川は汗ばんだ手でボールを握りなおすと、野球部で鍛えたワインドアップポジションの投球姿勢をとる。胸から下は鉄柵に守られているため、無防備な頭に狙いをつけるのは当然の成り行きだった。前川の様子にようやく気づいたニキビ男は息をのみ、何か言いかけるように口を開いた。  だが、ニキビ男の言葉が紡ぎ出される寸前、ボールは前川の手を離れた。文句のつけようがない球速とコントロールで、ボールは一直線に目標を目指す。 ――今度こそ。  前川が勝利を確信した、そのとき。  柊人がほんの一瞬、冷え切った視線をちらりと前川に投げた。  その冷たい視線にあてられて、前川の背筋にぞっと悪寒が走った、瞬間。  ボールは高い音を立てて、柊人の側頭部を直撃した。  弾き返されたボールが放物線を描いて白く濁った空を舞い、柊人の重心が外側にずれる。踏み出した右足がふちを外れ、体が大きく右に傾く。  空にゆるやかな弧を描いたボールが立ち尽くす三人の視界から消えた時には、柊人の体はすでに、鉄柵の外側にはなかった。
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