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十
姉が転職先に落ち着いてから三ヶ月ほどすると、泰暁は姉の勤務先から地下鉄で二駅しか離れていない製薬会社に転職した。姉はまた自分のもとを去るかもしれないと予期しつつも。転職のことを告げると、姉は「お祝いしようか」と言ってくれた。医療機器メーカーへ転職した姉に倣うかのような弟の転職へふれない彼女の心中は量れない。陰のみえる親愛のこもった笑顔。
彼女は豪勢なケータリングを手配してくれ、その中に入っていたチラシをみて弟に問うた。「もうバスケはしないの?」
ケータリングの会社があるプロバスケットボールチームのスポンサーであるらしく、チームのPR業務や企画から営業まで一手に担っているという宣伝だった。「しないよ」と彼は答えた。
「嫌いになったわけじゃないけど、プロになりたかったのでもないし」
姉が自らバスケットのことに水をむけるのは珍しかった。「そっか」と彼女はつぶやいた。手を動かしながらうつむいた姉の横顔はみえなかった。
「行きも帰りも一緒にならなさそうだね」と姉が言った。
「そうだな。不規則だろうしなぁ」
「製薬会社ってキツそう」
「薬の情報を山ほど仕入れて姉さんに流すよ」
「スパイみたいな言い方しないで」
「ははっ、ごめん姉さん。そろそろ父さんが帰ってくるし準備急ごう」
「泰暁のお祝いなのに、変なの」
「俺がしたいからいいんだよ」
自分と似た面立ちの涼しい笑顔をむけた姉へ、切々として立ちのぼる炎。彼女だけは特別で、彼女に近づきたくて、彼女に追随するように生きてきた。
“姉へは誠実でありたい”など、笑止千万な言い訳だった。今ならわかる。姉へ彼の想いを打ち明けて、姉の裁可を仰ぐことをこそすべきだったのだ。泣きながら電話してきた孤独な姉へ縋るのではなく。
「……確かめに行かないといけないか」
鷹宮警察官から弟の気持ちを知らされたと、電話のなかでほのめかした姉の苦しそうな声が泰暁の耳に木霊した。
*
なかば放心していた鷹宮に、同僚が気安く声をかけた。「早く片付いてよかったな。それに比べて俺の案件のややこしさといったら泣きてぇな。言い分が食い違うってのがほんと厄介だよな。毎度毎度いやになるぜ」
鷹宮は「ああ」とだけ返して席を立った。
先日事故現場で顔を合わせた新島有紗は翌日は姿をみせず、あのあと父親の遺品を引き取りに警察署まで来たらしい。邂逅の翌日は翌日で弟の新島泰暁から連絡があり、今日は都合が悪くなったと告げられた。四日後に新島泰暁がそちらに伺うこと、供述調書にサインをすること、遺族から量刑に関する希望はないということを彼は強く主張し、電話は切られた。
そして今日、約束通り新島泰暁が署を訪れ、鷹宮が読み上げる供述調書になんの異議も唱えずあっさりとサインをし、帰っていった。これで新島姉弟との縁は切れた。
部屋から出るさい、新島泰暁が鷹宮にじっと目を据えて訊いてきた。“鷹宮さん、あんた姉貴が好きか?”
鷹宮はたじろいで“そんなわけはない”と返した。
“じゃあこれで、俺たち姉弟との関わりは切れると思っていいんだな”
“いうほどの関わりなんかない”
“その言葉を絶対に忘れるな”と新島泰暁は凄んだ。警戒と若干の敵意、それに諦めのまじった複雑な光が彼の瞳にはあった。新島有紗のそれよりももっと濃い、重く暗い光が。
――暗い――雨の――音が―――。
「鷹宮さん?」と訝しげな新島泰暁の声がした。鷹宮は顔半分を片手で覆っていたことに気づいた。
「雨が……」とつぶやいたらしい。
雨? と新島泰暁が片眉をあげて聞き返すのをどこか遠くで拾っていた。弟の双眸を姉のそれと勘違いしたのか。「雨のせいで両親は死んだんだ。きみには言ったよな?」
新島泰暁は虚を突かれたような顔をしていたが、焦点が定まらない鷹宮の二の腕を強く掴んで支えた。
「おい」
「ずっと雨が降っていればいい。罪が罪でなくなるなら」
「――――」
「きみの弟はバスケができていていいな。俺は棄てたくなんてなかったよ。勝手に死んだほうが悪いんじゃないか。自分のせいだろ、ぜんぶ」
新島泰暁は鷹宮にれっきとした敵意を向けた。怒りの焔が静かに燃える。
「意味はわからないが……、いまそれを俺に言っていいと思ってるのか。やっぱりあんた警察官に向いてねぇよ」
ドンッと部屋の外の壁に鷹宮を押しやって新島泰暁は冷然と言い放った。
「二度と姉に関わるな」
鷹宮は壁に背をあずけて髪を掻きあげながら、「誓った覚えはない」と新島泰暁の遠くなってゆく背へつぶやいた。
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