十一

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十一

 心は、胸にあるものだとばかり思っていた。心の所在を真剣に考えたことなどなかった。けれどほんとうはもう、暗い雨に濡れたあの日から、ずっと足元に落ちたままだ。降りつけ、叩きつけられたぶんだけ重く湿った(それ)は、持ちあげることができない。抱えようとしても、触れたそばからぐちゅぐちゅと音をたて水が手を浸食するだけだ。暗い滴が指を伝っていただろう。  21歳からこの12年間、バスケットにかかわるものを排除して生きてきた。NBAの試合をテレビで観ることも、スポーツニュースをチェックすることも、ボールに触れることも。  忘れられるわけはなかったのに。罪ですらない自分の罪、後悔とふかい祈り、なぜ自分が向き合わなくてはいけないのかという身勝手な怒り、総て――すべて、だれにも触れられることもなく救われることもなく転がったままだ。  願ったではないか。心は降る雨に濡れてしまいたいと。打ちつけられ透水し、もとの形もわからないほどに濁り破れた。悲しむことはない。願いは届いたではないか。拒絶されたと憤ることもない。はじめからだれにも立ち入らせはしなかったのだから。(くら)い忍び笑いが洩れた。  冬のさいごの名残りとばかりに冷たい風が鷹宮の顔に吹きつけた。とうとう、二回行われた公判のいずれにも新島姉弟は姿を現さなかった。これで関わりはなくなるはずだと新島泰暁は言った。  新島有紗への度を越した執着を、鷹宮は認めるほかになかった。この一週間、名刺に記載された彼女の携帯電話へ、彼らの自宅へ、姉弟の勤務先へ、鷹宮はつながりを求めた。姉は会社を辞め、弟は出張中という返答をもらった。本当かどうか知れたものではなかった。だが彼らの自宅に明かりがついていることはなかったし、新島泰暁が職場へ出退勤しているようすもうかがえなかった。万策は尽きたのだろう、もとより踏み入るべき道ではない。たとえあの姉弟がひとの道を外れていたとしても。  捜査と偽って出てきた署庁舎をぼんやりとみつめた。鷹宮のこの行動が組織へ露見したとしても、暗々裡に処理されるだろう。公序など存在しないかのような組織だ。そして彼自身それを忌み嫌いつつも(ただ)すことはない。失笑したとき、その音は聞こえた。 *    試合終盤、一本のシュートで勝負が決まるというクラッチタイム。画面を食い入るように観ていた。相手陣地(コート)のスリーポイントラインからバカみたいなロングシュートを放って命中、試合終了。これが逆転劇であったなら会場の盛り上がりは尋常一様ではなくなる。観客は総立ちになり、風船(クラッパー)を放り投げあたりにまき散らす。もはや祭りの騒ぎで、選手はヒーローとなる。人間業とは思えないNBAの選手たちの圧巻のパフォーマンスは、感動を超越して喜劇とさえいえた。  リングと自分を結ぶ一本の道が、あの頃の鷹宮にははっきりと見えていた。そこへボールを届けつづけるだけだと、疑いもなく信じていた。まっすぐで純粋な思い。それはそのまま鷹宮のみつめる先でドリブルをしてシュートを投げた彼に重なった。新聞記事の写真にあった意志の強そうな眉と、はにかんだ笑顔。新島有紗もおなじように笑うのだろうか。 「……待ってたよ、鷹宮さん。あんたを」  リングへ入らずバックボードへ当たったボールを残念そうにみやって、新島泰暁はふり返った。 「なんでここにいる」 「それは俺が言わなきゃいけないことか? あんたがここ一週間なにをしてたか自覚はあるだろ」  憐れみと蔑みの表情で新島泰暁は応えた。バスケットコートの端に、キャリーバッグとそこに掛けられた背広を認めた。「出張していたのはほんとうだったのか」  新島泰暁は、堪えきれなくなって哄笑(こうしょう)した。 「なっさけねぇなあ。天下の警察官がそのザマかよ。その顔、鏡でみたほうがいいぜ」  鷹宮は思わず顔の下半分を手で覆った。 「……きみの姉さんはどこにいるんだ」 「あんたに関係ないだろ」 「教えてくれ、頼む」  こんな懇願が口から出てくるとは、鷹宮は信じがたい思いだった。 「それを知ってどうするつもりだ? もう姉には関わるなと言ったよな」 「だったらなんできみはここにいるんだ」 「あんたが引かないつもりなら、どこかで決着をつける必要があるだろ。俺の会社にも姉の会社にも行って家の近くまでうろつかれたんじゃ気が休まらないからな」  ポツリと頬を叩くものがあった。みれば、陰鬱な空がその憂いをいまにも吐き出そうとしていた。新島泰暁は空を仰いだ。姉から少し聞いたんだけどと彼は前置きした。 「鷹宮さんさあ、雨にいやな思い出でもあんの?」  その訊きかたに鷹宮は一瞬、侮辱されるものと身構えたが、新島泰暁の表情は存外凪いでいた。しかし鷹宮の答えには含み笑いをした。 「きみには関係ない」 「あんたは俺のことも姉のことも調べたよな? この間言ってただろ、()()()()はバスケができていていいなって」 「……ああ」  だが鷹宮は、そのことに関しては偶然知ったのだという事実を述べなかった。 「()()バスケは辞めたんだよ」  彼にはしばしその意味するところがとれなかった。新島泰暁のふたたびの笑顔は、素直な青年らしさを帯びた。 「あんたほんとうに警察官に向いてないよ。どっか抜けてるよ」 「どうして……」 「なんで辞めたかって? ()()()を侮辱されたからだよ」  それはまたしても鷹宮には少なからぬ痛撃だった。新島泰暁が新島有紗を人前で「姉さん」と形容したのは、鷹宮がそれを聞いたのは、彼らが初めて邂逅した日だけであったからだ。あの日の空間と記憶に残響していたその言葉が、かたちを伴って彼のまえに現れた。 「鷹宮さん、あんたがなんでバスケを辞めたのかの詳しいいきさつは知らないけど、自分の心とはきちんと向き合っておいたほうがいいんじゃないか。俺に言われるなんて屈辱だろうけどさ」  新島泰暁はやや茫漠(ぼうばく)とした視線を遠くへ投げた。その眼差しに新島有紗との血の繋がりを意識せざるを得ない。 「あんたがなにを失ったなんて知らないが、それは他人と比べられるものじゃないだろう」 「きみに俺のなにがわかる」  鷹宮は気色ばんだ。すると新島泰暁は「その言葉、そっくり返す!」と声をあげながら、いきなりバスケットゴールの下まで走り出した。そして鷹宮の立つ位置までボールを投げて寄越した。 「あんたと勝負してみたいんだけど」と、無邪気にもみえる相好で彼は言った。
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