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十二
「三本勝負、先に二本シュートを打ったほうが勝ち」と一方的に新島泰暁は告げた。
手にしたボールの重みに、鷹宮は抵抗を忘れた。惹かれるようにして、コートへボールをつく。ボールが地面へ跳ね返る音と、掌へボールが反発するざらついた感触に血が騒ぐようだった。
「ラインがない」とボールに見入ったまま鷹宮はつぶやいた。「ここがスリーポイントラインで」と場所を指し示し、再度新島泰暁が一方的に告げた。
気がつくと鷹宮はリングへ正対していた。
*
右へ踏み込もうにも左へ踏み込もうにもディフェンスが鷹宮に正対し容易に突破できない。が、一瞬の隙を突き右からアタックをかけてドリブルしたまま右肩を外に回してロールターン、ディフェンスとの間に風が起こったのがわかった。
回転して踏み出した右足がもうディフェンスを抜いていて、腰を低く落として大きく手を広げている相手が滑稽なほどだった。そのままゴールまで駆けてシュートを放つ。
ディフェンスが感心したため息をついた。
「……うまいな」
その余裕ともみえる態度が鷹宮の癪に障った。
ボールをついていた前傾姿勢からスッと足を引き胸を起こし、シュートするとみせかけ右手につき替えてそのまま走り込んでレイアップシュート。リングへ入ったボールは新島泰暁に奪われた。
彼は右足でインサイドレッグ、左足でインサイドレッグをくり返し、ついにスライドステップしてディフェンスを欺いたオフェンスは左から強引にボールを運んでいく。右腕で鷹宮を抑え逆側の手でドリブルし、並走していた鷹宮の正面から腰をひねって間をつくり一気にリング下へ突入した。「クソッ」と鷹宮は毒づいた。
二の腕で汗をぬぐった新島泰暁は気が抜けたように笑った。
「あんた柄悪いな」
「どうとでも言え」と吐き捨てボールをリングから落ちたボールを左手で受けた。スリーポイントラインまで下がり、タン、タン、タン、タンと相手が焦れるくらいの時間をかけてボールをつき続ける。
右足を素早く引くと同時に軽く跳ねて上体を倒す、相手が身体を反らす、そこから一気に攻める……とみせてジャンプシュート。力強い動きでボールはリングへ呑まれた。
呆気ないほどの決着だった。
*
「……ひさびさに動いたから疲れた」と、息を切りながら新島泰暁がコートへ座りこんだ。ゆるやかな雨が降りだしていた。「傘を持ってこなかった」
新島泰暁は掌を空へむけて雨を受け、そのまましばらくぼんやりとしていた。それからおもむろに「雨が嫌いなら――」と口を開いた。
「べつに嫌いじゃない」と鷹宮は言下に答えた。
「そういう表情は警察官らしいな」と新島泰暁は皮肉げに目を細めた。
その眼差しだけはなぜか透きとおっていて。そこにだれが、だれを、なにを連想したのか。
「……だったら、雨があんたを慰撫してくれたらいい。鷹宮さん、あんたにやさしい雨が降りてくればいい。俺はそれを願う。だけどその傷は――、心に傷があるならって話だけど。その傷は、あのひとでは、俺の姉さんでは埋まらないよ。あのひとは、癒しだとかそういう存在じゃないんだ。あんたには俺のこの気持ちはわからないだろうよ。でも、一生だれとも分かち合うことのない気持ちなんだよ。俺だけが知ってる。あんたには、きっと生涯理解できない」
とても大切なものをしまい込むように、新島泰暁は掌をとじた。鷹宮には、いや、第三者からは侵しがたい姉弟に共通する陰を、彼は感じとった。苛立ちが胸に燻る。
「さっきの勝負への負け惜しみか」
「違う……そんなんじゃない。どうするのか決めんのは姉さんだ」
「きみは選択肢ですらないな」
「そんなことは充分わかってる……。あんたは冷たいな鷹宮さん」
「きみに俺のなにがわかる」
「さっきも言ったけど、その言葉、そっくり返すぜ。あんたは当事者の気持ちなんて顧みない。どこかで他人を笑ってんだ。“おまえのせいだ”ってな」
「…………」
「あんたはバスケを辞めたくなかったんだろ。勝手に死んだほうが悪い、ぜんぶ自分のせいだって言ってたよな。それが自分以外の他人への本心なんじゃないのかよ。そんな冷たい人間がなんで警察官なんかやってんのか知らねえけど」
「――新島有紗はどこにいるんだ」
新島泰暁は鷹宮を憐れんだ。
「……鷹宮さん、知ってるか? だれも誰かを手に入れることなんてできないんだよ」
「質問に答えろ」
新島泰暁は立ちあがった。
「これが答えだよ。たとえ姉が俺を受け入れてくれたとしても、あんたを好きになったとしても、あのひとは誰のものにもならないんだ。そういう生き方をあんたはできるのか、鷹宮さん」
「…………“そういう生き方”?」
「孤独な人間をずっと愛していくってことだよ。姉が俺を、弟として以上に愛してくれたとしても、俺は独りだよ。俺の人生を生きていけるのは俺しかいない。そういう孤独な存在として新島有紗を愛せるか? そういうふうにあのひとを見られるか?」
新島泰明の澄んだ眼差し――そこに映るふかい諦め――それは、倫理の果てを見透すような儚く孤独な光だった。ただひとりの人間に焦がれ、もてあまし溢れきった想いの奔流に鷹宮は呑まれた。
「きみは……、きみは姉さんを物理的な意味で手に入れたいとは思わないのか」
「物理的な意味?」
はっ、と泰暁は嘲笑った。
「血より濃いもんなんてないだろ」
「そしてそれを思ってんのはあんただろ。自分のせいだろ、ぜんぶ。自分からあのひとに惹かれたんじゃねえのかよ」
惹かれた、そんな生易しいものではなかった。彼女の領域を侵して踏みにじりたい衝動――まとう繊細そうで潔癖そうな膜を破壊してしまいたい物狂おしいまでの欲。男の、いや自分の情動はその程度の防御で制されるものではない。児戯に等しいそのような守りなど、いつでも壊してしまえる。それを新島有紗に理解させたかった。彼女の両肩をつかみ、言い聞かせるように身体を揺さぶって気づかせたかった。
わかっているのか、そんなものは男の、俺の力でどうにでもなる。女ひとり屈服させる程度、たやすいのだと。
ほとんど憎悪といってよかった。気づけ、気づいてその身を差し出せ。俺に隷属して、ずっとこちらだけを見ていろ。きみの世界は広くなんかない。いや、広い。弟の傍になんかいるな。ふり向いて、きみに差し出すこの手に気づいてくれ。弟から離れてくれ。俺を見なくても、きみのうしろには――――いいや、その弟のとなり以外の場所なら別の世界が広がっていると気づいてくれ。
きみを犯し尽くして、俺の心も壊して、一緒に果ててくれたら。
「…………俺はきみとは正反対だな」
浅ましく凶暴で理不尽きわまる思いは、吐息という熱に溶けた。
「なら、あんたに有紗は愛せないよ」
「きみの許可がいるのか」
新島泰暁は自身の言を否定するように頭をふった。そしてその方向をみて、泣き笑うように顔を綻ばせた。
「言っただろ? 決めるのは姉さんだよ。俺もあんたもただ裁可を待つしかない。そうだろ――――、なあ、姉さん」
なぜかそれを、ひとつの灯火のようだと思った。どこか果てのない、永遠につづく海に浮かぶひとつの灯のようであると。ふたつのものは分かちがたくそこに在る。
新島有紗が、弟のそばに立った。雨は降り落ちていた。
答えは出た? と弟は問うた。その瞳に映るもの。
「……泰暁。泰暁の、名前の由来を知っている?」と姉は言った。それは応えであるかもしれなかった。そして彼女は、笑ったのかもしれなかった。
*
鷹宮の髪に肩に背に、雨は降り落ちる。いっそ身体ごと心ごと、炎で焼き尽くされてしまえばいい。地に落ちたままの湿った重い残骸を消し去る業火であればいい。
けれど雨は鷹宮を慰撫するかのようだ。
だれも動かなかった。雨はただゆるやかに降り落ちる。
この炎のゆく先を知らない――果てがあるなら、それを見てみたいとだれかが言った。
炎の行くつく果てを宥めるように。ひとたびの休息を施すように。
雨は、降り落ちた。
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