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 新島有紗は今しがた会見した鷹宮警察官の厳しい顔つきを思い返していた。使うつもりで用意していた印鑑の出番は、とうとうなかった。 “弟さんとよく話し合ってください。できればお二人で来てほしいものです……一週間後にまたお待ちしています”  意外であったし、気が重くもあった。関心を払われることはできれば避けたかったのに。自分たち姉弟がまだ若いからだろうか。心もとなくみえたのかもしれない。それでいて、有紗は心にわずかなざらつきを覚えた。鷹宮警察官のあの射るような眼差しは、迷乱するなにかを感じさせた。――――些細なことだろう。暗く望ましくない方向へ思いが引きずられているだけだろう……。  事故の一報を受けたとき、そして父の容体を病院で聞かされたとき、ひとつの懸念が去り、同時に、暗澹として現実離れした世界に、ついに絡めとられたようだった。いや、ようやくと言えるのか。  日常のなかで、静かに倫理を外れた姉弟。自分はまだ、倫理の糸をつかんでいるはずだった。けれどその糸は切れてしまいそうだ。自分から手放してしまいそうだ。弟の瞳にみえる深い思慕をふり切ることができない。 ……疲れた。  ()が、彼女に想いを告げたことはない。だが彼女はあきらかに彼の執着を纏って生きてきた。笑い方がそっくりと言われる顔――弟が彼女の笑い方を真似るから。 「姉さん」と、ふたりきりのときだけに使われる呼称。姉に合わせたような彼の生き方。どこからそれが始まったのか、もうわからない。  父がむかし言っていた。“ほんとうはふたり合わせて有明になるように、泰暁の暁の漢字は明るいって字にするつもりだったんだよ。でも小さい弟がはじめて姉をみて笑った顔が、なんでだか(あかつき)って字のほうが相応しいように思えたんだ。だから、泰暁のあきは暁”  有紗は重苦しさに足を止めた。新島有紗、新島泰暁。二人の名前でひとつの言葉になる。有明(夜明け)――――両親が亡くなってしまったいま、だれも知ることのない弟の名の由来。 「――――泰暁――――」  有紗は悲しさに目を閉じた。 *  ――――朝に夕に。想うのはひとりだけ。  ボールを軽く回して、上に放って片手でキャッチ。  肩の力を抜いて、足を大きく開く。重心を限界まで低く入れて、ドリブルする。左右に細かく動かしボールをワンバウンド、股の間に巻き込むようにくぐらせて、前へ進む。ワンバウンドさせて、ボールを巻き込んで、前へ。ワンバウンドさせて、巻き込んで(インサイドレッグ)、前へ。  ゴールからだいたいの位置を決めて、彼は立った。軽く助走をつけ、ボールをつく。二回。素早くインサイドレッグ、ワンバウンドさせて、1歩2歩と踏み込んでジャンプ、シュート。  ボールがゴールに吸い込まれるときの音、これがなによりも彼は好きだった。もう一度助走をつけてワンバウンド、インサイドレッグ、1、2歩と踏んでシュートする。 「ははっ、決まった」  リングから落ちたボールが土のうえを這ってきたのを拾い、タン、タンとゆっくり大きくバウンドさせた。スリーポイントラインを決めて、シュートを放つ。シュッという耳になじんだ爽快な音がその場に響いた。  彼がボールに触れたのは、久しぶりのことだった。大学一年の春を最後にバスケをやめて、それからは友人と遊ぶときにする程度だった。大学に入ってひと月後にあった新入生歓迎会の席で、彼は先輩部員を殴った。卑猥な言葉で姉を侮辱されたからだ。こんな環境にはいられないと思った。姉が、男たちの下種な欲望に一時にでも利用されることは耐えられそうもなかった。姉への想いを薄々自覚してはいた。おそらく、高校の頃よりもっと前から。姉だけは特別だった。  人前では絶対に彼女を「姉さん」とは呼ばなかった。想いをいよいよ認めたのが、人を殴ったときだった。もうずっとずっと前から、姉は、新島有紗は、新島泰暁にとってただひとりのひとだった。  倫理的にまずい、そう思うよりはやく泰暁のなかに厳然として存在するのは姉だった。心は彼女に侵され、想いは彼女のもとへ走る。  姉は彼の気持ちに気づいている。そう確信を得たのは、歓迎会で殴り合いのケンカをしてから数日後だった。唇を切って顔を腫らせて帰宅した泰暁は、その理由とバスケット部を辞めてきたことを姉に告げた。「姉さんを侮辱したからだ」と。  あのとき、決定的な境界を自分は破ってしまったのだ。二歳上の聡い姉は、弟が自覚のないまま(いだ)いていた想いを悟ったに違いなかった。  姉は明るい色の服を着なくなった。髪を伸ばさなくなり、耳が出るくらい短い髪型が定着した。装飾的なものをいっさい削ぎ落とし、そして実家を去った。道徳的規範を弟に示したのだと思った。それは明確な一線であった。得心した部分もあった。姉は、高校と大学は女子高へ入っていた。もともと姉と同じ高校・大学へ通う考えはなかったが、そのことに落胆しなかったといえば嘘になる。弟の想いの片鱗を、姉はしかとみていたのだ。  けれどどんな姉も、泰暁のなかでは姉だった。新島有紗という人間だった。泰暁は、彼女にだけは誠実でありたかった。ひとりの人間として新島有紗の傍にいたかった。  ゴール脇でとまったボールを泰暁はぼんやりと眺めていた。今もこうして、姉を待っている。 「俺には、きみしかいない。ただ、有紗だけだ…………」 「……………泰暁」  泰暁が求めてやまないひとの声がした。泰暁は、姉そっくりだといわれる笑顔を姉に向けた。  それは(あかり)というほどやさしくはない、業火というほどにつよくはない。遠火のように不確かではない、それは炎であった。陰影をつけて切々と揺らめく姉への炎であった。
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