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八
チチチ……と、尾を引くツグミの高い鳴き声がふたりの頭上から降っていた。冬には落葉する欅とちがって、公園は常緑樹が多く繁っていた。日向と日陰がまばらに地面に落ちている。
「のどかですね……」
どこか感嘆をふくんだ声音で、新島有紗はそばにあるシラカシを見上げた。あいかわらず地味で淡泊な服装ではあったが、彼女の髪も睫毛も、陽の光をしっとりとあびていた。
「大変なことが自分の身に起こっても、自然は変わらないんですね。不思議だし、すこし悲しいです」
「その気持ちはわかります。わたしも両親を交通事故でなくしたので」
彼女は息を呑んだらしかった。歩いていた足をとめて「……すみません」と謝った。
「新島さん、座りませんか」鷹宮は遊歩道脇のベンチを指差した。
「今日あそこに行ったのは捜査じゃありません、もちろん。あなたを驚かせてすみません」
鷹宮が謝ると、新島有紗は恥じるように目を逸らせた。
「いいえ……。それに、花をありがとうございました。お供えをしてくださる方がいるなんて思っていませんでしたから」
先週会ったときと比べて、疲労の色は少し彼女の顔から退却していた。
「警察官になってから、亡くなった方がいればその現場に行って手を合わせているんです。遺族には会わないように気をつけていました」
今回にかんしてはそれは嘘だった。新島有紗に会えることを期待したし、話ができないかとも思っていた。
彼女の瞳は、鷹宮に対しての警戒をいまだ解いていないことを物語っていたが、鷹宮の胸にはそれでも蠢く炎があった。むしろその警戒こそが生身の彼女の発露であり、警戒のその膜に手を浸してみたい――潔癖さが垣間みえる目元に触れて、彼の心を見透してほしい――憐れで滑稽な鷹宮の相反する情動を統御してほしくもあった。
「鷹宮さん……雨がお嫌いなんですか?」
「え――――?」
「よく聞き取れなかったんですけど、さっき“雨のせいだ”って言われたように聞こえたんです。声をかけるまえにあなたを見かけたとき、なんだか苦しそうでした」
「そうでしたか……」
チチチと鳴いてツグミが二人の座るベンチ脇にとまった。人慣れしているのか、首を傾けて人間ふたりの様子を見ていた。
「両親が亡くなったのは雨の日でした。あのときの自分の惰性が、俺は許せないんだと思います」
新島有紗は、やや茫漠とした朧気な眼差しを彼女の足先に落としていた。そのどこかバランスを欠いたような姿態。
悔しいですよと彼女はつぶやいた。
「この間、鷹宮さんがおっしゃったように、父が亡くなって悔しいし、悲しく思います」
「新島さん――」
チチッと小さく鳴いたツグミがベンチを飛びおりて、ピョンピョンと跳ねて地面を嘴でつついた。新島有紗は少し目元を和ませた。
「でもまだ実感があまりなくて――」
「弟さんも同じことを言っていましたよ」
彼女は目にみえて肩を強ばらせた。
「弟に会ったんですか……? いつ……?」
「新島さんが――あなたが警察署に来られた日ですが」
鷹宮は、新島泰暁のこちらを嘲笑った挑戦的な態度を思い返した。新島有紗は、しずかな戸惑いを瞳へのせた。
「泰暁は、なにか言っていましたか」
泰暁、と彼女が弟の名を口にしたことに、喉がひりつくような痛みが鷹宮に走った。
新島有紗と初めてまともに口を利いたときの――――薄氷を踏むような――踏んで、亀裂がたちまち広がっていくのをなすすべもなく、息をつめて見ているだけの感覚が甦った。
けれど訊かずにはおれなかった。同時に鷹宮は利を図った。新島有紗の関心を彼に引くことができないだろうかと。
「それは俺からも訊きたいことなんです。……新島さん、弟さんはあなたになにか言ったことはありませんか」
新島有紗はあきらかに顫えた。鷹宮の目に狡猾な光が宿った。
「なにか、とは」
「弟さんはあなたに特別の感情を寄せているようにみえます。あなたが、そのことに悩んでいるのではないかと思ったんですよ」
「特別の感情?」
「お父さんのこともあって、弟さんがあなたに傾倒しすぎているということはありませんか。俺は――」
「泰暁がわたしに依存しているという意味でしょうか」
「もっと言えば執着というようなことです」
「あの子が小学生のときにわたしたちは母を亡くしました。姉弟ふたりで寄り添って……、鷹宮さんもご両親を亡くされたのなら、だれかに頼りたい気持ちがあったとして、それは自然なことなんじゃないんですか」
「それはそう思います。でも行き過ぎてはいませんか」
「……わたしたちがそう見えたということでしょうか」
「……そうです」
新島有紗は鷹宮に対してもはや警戒をあらわにしていたが、薄氷を背にしつつもその寸前で踏みとどまっていた。ここを崩せば彼女は氷に足をつけざるを得まい――鷹宮は焦れた。
「新島さん」
「…………」
きみたち姉弟は危うい、と鷹宮が口を開きかけたとき、新島有紗が静かに言った。
「……鷹宮さん、わたしの質問に答えてください。泰暁はわたしに、わたしたちに関してなにか言っていましたか」
その瞳のなかに、緊張した、けれども厳しく、どこか決意を思わせる凛々しさを見て取った鷹宮は、図らずも圧倒された。なにとも知れない果てを見透す深く遠い眼差し。急くような思いで鷹宮は新島有紗の両肩を掴んだ。彼女は驚きに硬直した。
「だったら言うが。あの弟は姉であるきみを好きだと言っていたよ。きみはそれを知ってるのか? きみはあの弟をどう思っているんだ」
新島有紗は大きく目を見開いていたが、やがてふるえる声で告げた。
「放してください。……それに、わたしたちの関係がどうであろうとあなたに関係がありますか」
「――ないな。ない。でもきみは辛そうだった。初めて病院できみを見た日、きみはあいつの腕に抱かれて――――」
「そんな言い方はやめてくださいっ!!」新島有紗は大声で叫んだ。
「だからそう見えたってことだよ!!」鷹宮も声を張りあげた。
「そう見えたんだよ。聴取のときも思ったが、きみたちはこれからどうやって生きていくつもりだ? きみは、自分の人生を歩むことなくずっとあの弟の傍にいるのか? 二人で話したときもそうだったが、あいつは異様だよ。まるできみしかこの世界に存在していないみたいなことを言う。そんな人間のそばで正気を保てるか? 実の弟に愛されて、きみは嬉しいのかっ!?」
彼女は鷹宮の腕を振り払って立ち上がった。つり上がった眉と紅潮した頬に、鷹宮ははじめて新島有紗に生命力をみた。
「……鷹宮さん。ご両親を亡くされたとき、どんな気持ちでしたか?」
「は? どうって――――」
「さっき言ってましたよね、自分の惰性が許せないって。自分で自分を許せないって、どんな気持ちですか」
「それは――――」
「言葉にできませんよね。わたしも同じです。あの子への思いなんて、言葉にできません」
鷹宮は二の句が継げなかった。彼女の、新島有紗のあまりの潔癖さと頑なさに呆然とした。
「明日……また警察署に伺います。できれば父の遺品を引き取らせてください」
そう簡潔に告げて去った新島有紗に、鷹宮はしばらく動けなかった。そして不意に笑いがこみ上げてきた。
「く……っ。ははっ、はははっ…………ははははっ」
新島有紗の関心を引こうとした自分の滑稽さと、してやられてような痛快さ。さすがはあの弟に慕われるだけある。彼女の警戒と防御は天性の勘の成せる業かもしれない。あの弟が傍にいるのだ。あの弟の傍にあの女はいるのだ。鷹宮が棄てた世界に軽々と触れている新島泰暁の傍に。
スリーポイントシュートを放って笑っていた新島泰暁を思い浮かべながら、鷹宮は自分の手をみつめた。
――――思い出は、いつも苦い味で終わる。
コートを駆ける爽快さなど、とうに失った。鷹宮はベンチに頽れて笑いつづけた。
いつの間にか、愛らしいツグミは姿を消していた。
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