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 狂っている。常軌を逸している。もそうだが、いまの自分が一番だ。この(くら)い合致が、鷹宮には痛烈に堪えた。  おそらく軽い処分で済む。隠蔽という手段でもって、問題にもならない可能性がある。十中八九そうなる。よもや関係のない自分が、彼女に会いに行く理由などない。それでもこの足を止められない。風がこの心を(さら)ってくれればいい。それはほんとうはもう、あの暗い雨にふかく濡れて地面に落ちたままだ。降りつけ、叩きつけられたぶんだけ重く湿ったそれは、持ちあげることもできない。抱えようとしても、触れたそばからぐちゅぐちゅと音をたて水が手を浸食するだけだ。暗い雨のなかで手は濡れるだろう。 「新島は先週退職しましたよ。新島になにかあったんですか?」  新島有紗の上司とおぼしき人間は、鷹宮から受け取った名刺をみて怪訝な表情で尋ねた。 「いいえ、あくまで形式的な質問です。彼女から私のことをなにか聞いてはいませんか」  「はあ、特には」 「……そうですか」  瞬間、憎悪にも似た感情が湧きあがった。新島有紗は、鷹宮(自分)をその人生に立ち入らせもしなかったのだ。鷹宮は歯を食いしばった。 「連絡をとりましょうか」    辞めた人間へも親切なことだ、地方公務員とはいえ警察のような権力機構へ市民をやすやすと差し出すとは。鷹宮は内心嘲った。  彼の血走った目を、外の風は冷やせそうにもなかった。新島有紗(にいじまありさ)の勤務先と、新島泰暁(にいじまやすあき)の勤務先は地下鉄で二駅しか離れていない。  あの潔癖そうな新島有紗が、新島泰暁を姉弟の枠をこえて愛しているとは到底思えなかった。だが自分も、新島有紗を愛しているなどと言えたものではない。恋ですらないだろう。度を越えた執着――――、それならばあの弟にもきっと負けてはいまい。姉に触れ、拒絶するように瞼を伏せた女を、それでも覗きこんでいたあの弟を包んでいた狂気は、鷹宮をも侵したのだ。     “雨があんたを慰撫してくれたらいい――――あんたにやさしい雨が降りてくればいい。だけどな……”   *  さいわい、事故でこちらとしても助かった。加害者は反省していて身元にも問題はないし、薬物やら殺人やら犯罪絡みの事故でもなかった。典型的な交通事故で、通常の手順を踏むだけだ。なんら問題はない。被害者は亡くなってしまったが。不幸な事故だ、それ以上でも以下でもない。被害者について、遺族に事情聴取をしなければならないのが億劫ではあるが、数時間の作業で済むだろう。それでなくても他の捜査やら事務処理などで仕事が山積みである。 「まったく、こうも毎日毎日事故があるってのに、生きてる奴は生きてるもんだな」  たとえば、違反者に対し常に高圧的で、交通違反をする人間の話など聞くに値しないとばかりに、時には違反者を頭ごなしに怒鳴りつけて強引に反則キップをきる交通執行課の巡査。そのくせ自分は酒気帯びで運転して何事も起らなかったことを仲間内で誇り、同じ警察官でも女とみるやバカにしたり、卑猥な言葉を平気で浴びせる屑のような人間だ。彼らを見逃せというのではない。違反者とはいえ、人間は千差万別だ。次に違反を犯さないよう、重大な事故につながらないよう諭すのが警察官の職務である。  当然、そんな警察官の言動に違反者側からやりすぎだとの苦情が入ることもある。しかしそれだけだ。  他にもまだいる。殺人事件の捜査で、目撃者の証言をとらなかったのにとったことにして捜査を放棄する警察官。そういったことが発覚しても、世間に公表することなく内々の処分で済ませてしまう。署内ひいては警察内部の風紀を正そうと尽力するものなど、ほとんど皆無である。  現に、鷹宮のいまの発言を真正面から糾弾するものはいない。鷹宮の言葉に、ふと顔を向けた数名の署員も苦笑いか無視、せいぜい眉を顰めるといったところだ。場合によっては、上司に聞き咎められることもあるだろうが、平生(へいぜい)そんなヘマは踏まないつもりだ。  彼は足をデスクにのせたまま、鑑識科から回ってきた事故現場を写した写真に目を通した。  そして、そうだ。  今回の事故も特段問題はない。しかしなぜか、たんなる“遺族”としてあの姉弟をとらえることに鷹宮は強い抵抗を覚えていた。  血の気の失せた表情だった被害者の娘と、その娘を慈しむように抱きしめていたあの息子、つまりあの姉弟を…………。  慈しむように、とはおかしなことだろうか。家族思い? 状況が状況だったのだから、むしろ自然ではないか。ならば、このじりじりとした苛立ちはなんだ。手術室近くのベンチで、閉じこめるように彼女に腕を回していた弟の姿。顔を背け、弟から遠ざかろうとするかのような姉を厭うわけでもない。どこかいびつな光景を見た気分だった。  ねえさん、と彼女にだけ聞こえるように耳元にささやかれたあの声は、得体の知れぬ感情を鷹宮に運んできた。どうしてか自分は、その場から動けなくなった。ともすれば幻聴だったと思うほどだ。あの弟は、鷹宮が耳にしたその一度を除いて、人前では姉のことを始終“姉貴”と呼んでいた。それがなんだというのか。弟が姉を姉さんと呼んだところで、自分には、なんの関係もない――――。 「こんなこと考えてるから、仕事が減らないんだ」  鷹宮はため息を落とした。 「24」の赤い数字が秒計に光る。23、22、21……減ってゆくカウント、やまない声援、シューズがコートの床を擦る複数の速い音、入り乱れるチームロゴとウェアの色――――――降ってくるボールを取ったらトップスピードで一気に駆けてドリブル、素早いロールターン、ディフェンスを逆方向に振って、床を蹴ってシュート。足を踏みかえて、ディフェンスの横を抜くあの瞬間だけは、笑ってしまうほど快感だった。  好きだった選手は、ドネー・アービングだ。彼の神業たるステップとハンドリング、ディフェンスをものともせず独壇場に持ち込むプレーは堪らない。NBAの選手たちにかかれば、コートの広さなどあってないようなものだ。憧れた舞台は遠かった。でも、コートを駆け抜ける爽快さは、いつも彼だけのものだった。けれどその気持ちは、思い出すたびに苦い味で終わる。  鷹宮は、デスクから足を下ろして自分の手をぼんやりと眺めた。事故現場を訪れることが、慰めを得ることになるのか。胸をえぐり、そこから血を流しているつもりでいるのか。それは良心の呵責に耐えるポーズなのか。  あれは不幸な事故だった。それ以上でもそれ以下でもない。なにもきみが責任を感じて、プロの道を断念することはない、せっかくの才能なんだ。ご両親もきっとそれを望んでいる、そうに違いない……。何百回と聞いた言葉だ。  現場で手を合わせるとき、深い後悔が彼を襲う。あの日の雨の音が押し寄せてくる。  ねがわくば、ここに雨が降りつづけてくれと祈る。空を仰いで、心は雨に濡れてしまいたい。洗われるのか、(そそ)がれるのか、そんなつたない思いで免れたい後悔を、いまだけは覆い尽くしてほしい。 「“罪ですらない”か……」  もっとも死ぬべき人間なら、ここにいる。  あの日、雨が降っていなければ。友人たちからの誘いに乗らなければ。少しのタイミングのズレと行き違いは、鷹宮の両親が享受するはずだった未来を消した。「おまえはなにも悪くない。そんなことは、罪ですらない」とバスケットボール部の顧問は彼に言った。  鷹宮の虚ろな目は、ふたたび現場写真を映した。全面にヒビの入ったフロントガラス、ひしゃげたボンネット、道路のブレーキ痕……。心を動かされるものなどなかった。使命感に駆られて交通捜査課を志したわけではなかった。誰かを断罪したいわけでもなかった。公序がどんなものだったかを忘れてしまいそうな組織のなかにあって、それを忌み嫌いながら、(ただ)そうともしない。なにかを考えること――自分の罪もふくめて――を、やめたかった。
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