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少し離れたところに住む年老いた母親から電話があった。
用件は、前の年に亡くなった同級生の新盆の見舞いに行きたいのだが、足がないので連れて行って欲しいとのことだった。
ちょうど仕事は休みだしこれと言って用事もなかったので、了解して母の家に向かうことにした。
母の家までは車で小一時間ほど走らなければならない。そこは、私が生まれ育った家であり、今は兄夫婦が家を継いで母と一緒に暮らしている。兄と私は一回り近く年が離れていて、兄は間もなく定年を迎えるはずだった。兄の性格は一〇年前に死んだ父親に似ていて気が短く、面倒を嫌った。気に入らないことがあるとすぐに語気を荒げ、物事を自分の都合のいいように決め付けて決着をつけようとした。母も負けず気が強いため、よく兄と言い争いになったが、それでも、家を出て私のところに来ないのは、案外似たもの同士気が合うのかもしれない。しかし近頃は、嫁に行った娘に子どもが出来て、週末になると兄夫婦は孫の顔見たさに娘のところに出かけて行くため、母は一人取り残されることが多くなっていた。
私が呼び出されるのはそういう時だった。面倒くさくは思うが、それくらいのことは引き受けなければ、不義理な息子だと謗りを受けかねない。
普段の面倒は兄夫婦に押し付けておいて、時たま母親に呼び出されて用件に付き合って、孝行息子のように振舞う。我ながら結構美味しい役回りだと思う。でも、そうやって私に用を申し付ける母は、私に助けを請うことで私の愛情を確認しているようだし、私も普段の無沙汰を取り繕ういい機会になっているのだから、お互い様なのだと思うことにしている。
庭先に車を止めると、待ち構えたように母は玄関先に出てきた。実際、玄関の上がり框に腰掛けて、私の到着を待ちわびていたようだった。
つい数年前までは、矍鑠として歩き回っていたはずだが、昨年家の中で転倒して腰の骨に皹が入り、一ヶ月ほど寝込んでから一気に老け込んでしまった。今は杖に縋ってのろのろと歩くのがやっとのようで、玄関から車に近づくのも大儀そうに見えた。
この前顔を出したのは何時だったか、私は少し考え込んだ。ほんのひと月くらいのはずだが、目の前の母は私の記憶する以前の姿から一回り縮んだように見えた。それは腰が曲がったからと説明すればその通りなのだろうが、見た目の印象は曲がった腰の分だけ背が縮んだのではなく、身体全体が一回り小さくなったように見えた。
私の脳裏にいつも有った若い頃の母の姿は、白い割烹着をつけ、右手に買い物籠を下げ、左手で私の手を引いて買い物に出かけるものだった。私は決まって割烹着の裾に顔を押し付け、母に甘えながら歩いたものだった。何故か今でもその光景が真っ先に思い出された。あれは何時のことだったか。確かそのときは、母の他にもう一人白い割烹着姿の女性がいたのだ。私は、はじめ母の手を引いて八百屋の店先に佇んでいた。母はそこで、誰か顔見知りと立ち話をしていて、私は退屈して店の中をうろうろ歩き回った。薄暗い店内には、乾いた土と埃の臭いに微かに湿った甘い臭いが混じりあっていた。どこからか、ラジオの音が聞こえていた。時折小さな蠅の飛ぶ音が耳を掠めた。店の奥まで進んだところで振返ると、端が少し黒ずんだ白々と光る蛍光灯をぶら下げた天井と、蛍光灯が照らす野菜や果物が並ぶ台と、両側に迫る缶詰や瓶が並ぶ棚が今にも落ちそうな壁が形作る暗い額縁の向こうに、灰色のシルエットになった母の姿が立つのが見えた。私は私を捕まえようとする闇から逃れるため、足掻くように走り出し、何時ものように割烹着の裾にしがみついて顔を埋めた。そのとき頭の上から聞きなれない声が降ってきた。
「あら、間違えちゃったのね」
そういって笑う声は、母のそれとは違い、やけにしゃがれて野太く、それでいて私を丸め込もうとするように妙に馴れ馴れしく響いた。私はぶるっと肩を震わせ、恐る恐る私を見下ろす太った女の顔を見上げ、慌ててそこを離れて、母の姿を探して振返った。
「お母ちゃん」
そう呼ぶ声に返事はなく、私は泣きながら店先を、母を求めて右往左往した。不意に後ろから肩を掴まれて振返ると、母が険しい顔で私を見下ろし、何を騒いでるのと言った。私は、悲しいのと嬉しいのと恥ずかしいのと色々の感情がごちゃ混ぜになって胸にこみ上げ、その場で大声で泣いた。
助手席に乗り込んだ母に、訪ねる家の場所を訊くと曙町だと答えた。曙町は母の家から車で一〇分ほどのところにあり、以前は田んぼしかなかったが、最近になって住宅が増え始めた場所だった。曙町のどの辺りだと尋ねたが、お前が知ってるだろうと意味の分からないことを言った。俺が知るわけないだろうというと言うと、そんなはずはないと何故か強い口調で返された。曙町の澤田という家だから、きっと知っているはずだと言い張った。
確かに曙町には何件か知った家が有った。母が何故そのことを知っているのか分からないが、そこに行って尋ねれば分かるかもしれないと思って、とりあえず車を走らせることにした。
走り出すと母は、去年は同級生が四人も死んでしまって、あと残っているのは駅前の田代さんとあたしだけになってしまったと言った。その口調は何故か楽しそうに聞こえた。実のところ、その話は母を訪ねるたびに聞かされているので、相槌を打つのも面倒くさくなっていた。母は、私が顔を見せるたびに死んだ同級生の数を教え、残りの数を数え、父が死んでから何年になるかを数え、あと何年生きられるか分からないと言った。それから、自分が貰っている年金が幾らだとか、この歳になったら使い道もないといった愚痴なのか自慢なのかもよく分からない話をくどくどと繰返した。金に執着するようになったら認知症の始まりだと以前聞いたことがあった。確かに亡くなった父親も、脳梗塞で倒れる一年ほど前は、やたらと金の使い道にうるさくなったことを覚えている。母はもう大分進んでいるようだと思いながら、曖昧に返事を返して車を走らせた。
曙町に続く一本道は真直ぐ北に向かっていた。道路の両側には水田が広がり、高く伸びた稲の葉が日の光を浴びて葉の先を白く輝かせている。その輝きは細く鋭い線で一気に描き込まれたように勢いがあり艶々として、それが時折風に靡いて揺れていた。フロントガラスの向こうに、青黒い山の稜線が立ち、少しずつこちらに近づいていた。小学校前の交差点を左に曲がると、すぐに新しい家が建ち並ぶ一角に出くわした。田んぼがなくなって家が立ち、一つ田んぼを挟んでまた家が建ち並ぶ。そんなふうに住宅街と田んぼの市松模様が出来上がって、もとは畦道だった道路を挟んで北に延びていた。当ても無く走り回っていても仕方がないので、適当に見当をつけて細い路地に入り、澤田という家を探した。
母の友人ということは、もう長いことこの地に住んでいるのだろうから、真新しい家は無視していいのかもしれない。しかし、代が替わってその息子が思い切って新築した可能性もないわけではない。ならば、辺りのせいぜい敷地七〇坪の安普請は無視して、この土地の旧家然とした構えの家を探せばいい。そう思いながらうろうろ車を走らせていると、何のことはない、遠目に高く掲げた孟宗竹の先にもう一本短い竹を十字に括りつけて、その両端に笹の葉を束ねて垂らし、真ん中に鳥かごのような灯篭をぶら下げた盆飾りが庭先にある立派な構えの家が見えた。あれかと尋ねると、母は眠そうな目をしょぼつかせて、たぶんそうだと答えた。
敷地は厚みのあるコノテヒバの生垣で囲われていて、表札が掛かった門はなかった。まあ大丈夫だろうとそのまま進んで行くと、いまどき珍しい随分立派な和風の庭が右手に見えた。左の窓からは、これまた珍しい白壁の蔵が眺められ、その後ろに背が高い屋敷林が鬱蒼と繁っている。なんだか、別の時代に迷い込んだような気分になった。母屋は、入母屋造りの軒の深い平屋でこれまたでかい。傾斜の強い瓦屋根が反り返るように上がっている。玄関から少し離れたところに車を止めて、母を促すと、母は何故かお前が先に行けと言った。
「何で俺が行くんだよ」
「ここで間違いないか聞いとくれ。いちいち車から降りるのは大変だから」
そう言って、母はとぼけた顔で、窓の外の庭を眺めた。軽く舌打ちして車を降りると、エアコンの冷たい空気に慣れた身体に、八月の湿った熱気が一気に纏わりついて汗が噴出した。近くで蝉が鳴いていた。くそ熱いくせに、ほんの少し風があって、それが頬を撫で付けるのを心地よく感じ、却って腹が立った。
車から離れて、玄関に近づき表札を探すと、引き違い扉の真上に厚みのある立派な表札が掛けられ、達筆で澤田と記されていた。やっぱりここだと思って母を呼びに行こうと思ったが、やけに静まり返った家の感じが気になった。新盆だというのに家のものが誰も居ないということがあるだろうか。私の記憶では、ひっきりなしに客足があり、その度に玄関先に出迎えて忙しかったはずだった。
試しに玄関扉を引いてみると、ゆるゆると滑って開いたので、中を覗きこむと暗さに慣れない目のため、広々とした廊下が真直ぐに暗闇の中に延びて行くように見えた。廊下の両側には障子が立てられ、僅かな外光に白々と浮き上がっている。家の中からは乾いた冷気と一緒に微かに線香の臭いが流れ出ていた。
耳を澄ますと、微かに人の気配があるように思えたので、思い切って奥に声をかけてみた。すると、家の中で誰かが立ち上がって、こちらに向かって歩いてくるのが分かった。待っていると、いきなり手前の障子がさっと開いて、若い女の顔が目の前にぬっと差し出された。
「どちら様でしょう」
そう訊ねる声に、不審の色が混じっていた。
「こちらは、澤田さんのお宅ですよね。こちらのお婆さんの新盆に、わたしの母がお邪魔したいと申しまして。お線香をあげさせて頂きたいのですが」
そう答えると女は、それはご丁寧にありがとうございますと頭を下げて、どうぞお上がりくださいと言った。
私は、礼を言って車に引き返し、助手席のドアを開けながら「ここで間違いない、早く降りなよ」と言って車の中を覗きこんだ。
しかし、そこに母の姿はなかった。驚いて辺りを見回すと、玄関の右側に延びた縁側の真ん中辺りに置かれた靴脱ぎ石に乗っかり、框に両手をついて縁側に攀じ登る母の姿が見えた。
慌てて、母の側に駆け寄って背中を支えようとしたが、母は私が手を伸ばすより早く縁側に這い上がり、奥の部屋に向かってぺこりと頭を下げた。開け放たれた障子の奥に、恰幅のいい老婆がちょこんと腰を下ろし、母に向かって同じようにお辞儀をしていた。十二畳もあろうかと思われる部屋の正面奥に、白い布で覆われた盆棚が飾られ、一番上に故人の位牌、その下に遺影が置かれていた。遺影に写った個人の顔は翳っていてよく分からなかった。その前には供物が、両脇には盆提灯が幾つも並んで、手前の小机の香炉に立てられた線香から真直ぐに白い煙が上がっていた。
「よく来てくれたね、キクちゃん」
そう言って、その家の老婆がもう一度頭を下げると、母は「久しぶりだねえ、トシ子ちゃん」と言って懐かしそうに笑った。
どうやら、母がトシ子ちゃんと呼ぶ老婆は故人の妹のようで、母もよく知った間柄のようだった。焼香を終えて、再び向き合うと二人は顔を寄せ合って楽しそうに喋りだした。私は、縁側に腰を下ろして、母の用件が終わるのを待ったが、なかなか終わりそうになかった。先程玄関先で挨拶を交わしたのは、故人の孫娘らしく、暇を持て余す私の側に、ガラスの茶碗に注いだ麦茶を置いてくれた。礼を言って、一口飲むと気持いい冷たさが喉を伝って落ちた。
庭先のよく手入れされた松や楓の葉の緑が、夏の薄ぼんやりした水色の空にくっきりと映えて美しかった。左の奥に咲いた百日紅の赤い花が目に染みるようだ。垣根の向こうの遠い空に入道雲が競りあがっている。背中からは、楽しそうな老婆たちの笑い声が漏れ出して、昼下がりの静けさが際立ち、時折申し訳程度に流れる風に鳴る江戸風鈴の間の抜けた音が、眠気を誘った。そして、本当にうとうとと眠ってしまったようだった。
膨れ上がる入道雲の縁が日に照りかえり眩しく閃くと思う間に、それは母が着た割烹着にすり替わった。
「あら、間違えちゃったのね」
頭の上から声が降ってきた。
いつか聞いたことのある、しゃがれて野太く妙に馴れ馴れしい声。
見上げると、私を見下ろす大きな影が、そこだけ妙に白い歯を覗かせて大口を開けて笑っているのが見えた。
トシ子ちゃん?
蝉の声がまた大きくなって、私は意識を取り戻した。まだ目は閉じたままだったが、頭はしっかり冴えていた。目を開けると外の世界は眩しい光に覆われ、その輪郭が戻るまで少し間があった。蝉の声に混じって、じゃれ合う猫のような声が背中から聞こえていた。振返ると、楽しそうに話し込む二人が、猫というより二匹の猿のように背中を丸めて蹲っていた。母はまた一回り小さくなったようだ。一体どれだけの時間が過ぎたのか分からなくなっていた。
私は縁側から立ち上がり、楽しい会話に水を差すのを憚りながら、そろそろおいとましようと、母を促した。私の誘いに母はうるさそうに振返ったが、私を無視してまた会話を再開させた。その態度に苛立ち、今度は語気を強くして帰るよと言った。座が俄かに白けて気まずい沈黙が辺りを覆った。何時の間にか、日差しは遅い午後の雰囲気を纏っていた。一気に額に汗が噴出し、目尻から頬を伝って落ちるのが分かった。
「おやおや、怖いね」
そう言って母は、ようやくトシ子ちゃんに別れを告げてのろのろと膝をついたまま後退り、そこに上がったときの動作を逆回しするように後ろ向きに縁側から降りようとした。私がその肩を支えようと手を差し出すと、母は虫を追い払うように手を振って拒んだ。
決まりが悪い私は、屋敷の中の老婆に向かい、愛想笑いを浮かべながら長居を詫びて、サンダルを履き終える母の姿を確認して、帰路に就こうとして老婆に背中を向けた。その刹那、私の視線の端に、口元を歪ませて怒りに満ちた眼差しを向ける老婆の顔が掠めた気がした。背中の汗が一気に冷えて、頭の天辺まで一気に鳥肌が立った。
そそくさと車に辿り着き、ドアを開けて振返ると、まだ母は座敷と玄関の中間辺りを、腰を折り曲げてのろのろと歩いていた。母はまた一回り小さくなったように見えた。その遅い足取りを苛々しながら待ち侘びていると、音もなく玄関が開いて先程の孫娘が姿を現した。
「また来てくださいね」
そう言ってお辞儀をした娘が頭を上げると、その顔は突然十歳以上も若返って、どう見ても小学生くらいの子供にしか見えなくなっていた。そして娘は屈託ない笑顔を見せて右手を前に差し出して母に手招きした。すると母は、それまでになく軽い足取りで玄関に向かって駆け出した。
私には一足踏み出すごとに母が小さくなるのが分かった。頭の大きさはそれまでと変わりなかったが、手足がやけに短く萎縮して、胴体もそれにあわせて極端に短くなっていた。何時の間にか母は背中を真直ぐに伸ばして走っていたが、その背丈は最前よりも更に低く縮んで、少女の脇をすり抜けるときにはその膝よりも小さくなっていた。そのまま中に倒れ込んだ母の手足は完全に消え去り、母の頭だけが三和土の上に転がっていた。
こちらに向いた母の顔が嬉しそうに笑うのを、私は呆然と見詰めていた。
少女は、満足げに母の頭を見下ろし、おもむろに膝を折って屈み込み、両腕で母の頭を抱え込むように抱き上げ、私に一瞥をくれて、静かに扉を閉めた。
扉が閉まるのと同時に、歯の根も合わぬほど震え出した。私は車に縋り付き不自由な身体を引きずるようにして漸くドアに辿り着いて運転席に滑り込んだ。震える手でエンジンを点火し、どう切り返したのか分からないまま、何とか無事にその家の庭を後にして、住宅街の路地を抜け、もと来た街道に飛び込んだ。
私はひたすら前を睨みつけて、真直ぐに車を走らせた。まっすぐな広い道路に出るとあとは家に帰るだけだ。胸のうちに安心感が広がり、私はほんの少し笑っていた。
終
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